25年前の自分を必死で思い返してみる。あの頃、私にはどんな未来があったのだろうか。何ひとつ頭に浮かばない。当時、私の最大の関心事は私自身についてであって、未来のことなどまるで気にもならなかった。世界が勝手にそれに向かって突き進んでいるらしい未来なるものと、私自身との接点は何ひとつないように思え、ただひたすら目の前のものごとに自分がどう反応するかだけが重要だった。若者とはおおよそこういうものだろう。それがいつしか、自分とはこの程度の者だというのがわかってくる。すると、このままでいいのだろうかと不安になる。いや、いいはずだと安心したくなる。こうして急に未来が気になり出す。つまり大人になったのだ。どうやら、未来とは大人たちの側に属するもののようである。

にもかかわらず、若者を前にして大人はよくこう言う。「君たちには未来がある」と。実は、これは悪意に満ちた危険な言葉だ。君もそろそろ我々の仲間入りをしないか、という甘い誘惑の言葉でもある。即ち、その裏には「レールは敷いた。ずっと先まで走れ」という意味がこめられていて、明らかに「お前らの好き勝手にはさせない」という悪意が感じられるのである。もちろん、大人から急にそう言われたからといって、多くの若者はキョトンとするばかりだろうが、数年がたつにつれてその魅惑は抗いがたいものとなり、彼らもついにその敷かれたレールの上を走り出す。こうして彼らも未来を意識し始める。この場合の未来とは、つまりレールの先はどうなっているかということなのだが。

私も、現在ではすっかり中年と呼べる年齢になってしまったが、どうも若者に対して不用意に向けられる「未来」という言葉が嫌で、がまんならない。別に若者たちのことを真剣に考えてやる気もないのだが、自分が知らぬまに敷いてしまったレールの先に、さも世界全体の未来があるように錯覚することだけは避けたいと思っている。私の未来は私ひとりのものだ。誰にも後ろから走ってきてもらいたくはない。「ついてくるな。これは俺のものだ!」と叫んだとたん、プツリと糸が切れて地獄へまっさかさまに墜落したのは『蜘蛛の糸』のカンダタだが、もしそうなったら、横目で見て笑ってくれればよい。私は地獄でうまくやっていく。

未来とは、現在のすぐ先に黒々と横たわっている嵐のような時間のことだと思う。嵐の中に見え隠れする何本かのレールは地獄に向かい、何本かは吹き飛ばされて既に跡形もない。さあどうするか。

クラゲにとっては、この嵐こそが棲家だ。風に流され、時に逆らい、ジグザグに移動しながら獲物を捕獲する。それは体内で猛烈な毒素に変化する。光を求めず、自ら光る。何だか全体がふにゃふにゃしているが、それこそ嵐の中で生きることに適応した完全なる形態の証しだ。しかも一匹ではない。クラゲは、我々が世界だと思っているものの外へ外へと増殖していく。彼らが棲むミライの実感がどんなものなのか私は知らない。しかし、その暗黒の嵐にしか見えぬものは、アカルイに決まっている。

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