第1章 天井桟敷での経験を経てアップリンクへと至るまで

山本氏(以下◆) まず、今の浅井さんの原点的な部分の話を聞かせてください。
浅井さんは高校生時代に天井桟敷の舞台を観て衝撃を受けたということですが、それ以前から、そういったカルチャーには興味があったんですか。

いや、そういう感じじゃなかったよね。中学時代はラグビー部。その一方では陸上部で長距離もやっていたんだけど。
で、当時は大阪に住んでいたので、一番のスターは吉本興業。毎週土曜日は家に帰って吉本新喜劇を見るという生活でした。
他にもヤングオーオーを見たり、吉本の芸人が出ているオールナイトニッポンを聴いたり。大阪においては、吉本興業はメインカルチャーだったから。

◆意外ですね(笑)。

でも、音楽には興味があった。中学生の時にフォークソングブームが起きたんですよ。雑誌で言うと『GUTS』とか『新譜ジャーナル』とかがあったりして。
アメリカではウッドストックがあって、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、クリーム、ボブ・ディランが出てきたり。
それに遅れて日本では、岡林信彦やはっぴいえんどが出てきて。ロックを日本語で歌うことに意義を求めていた時代で、その洗礼を受けましたね。それがリアルタイムな中学生時代。今思うと、フォークもロックもいっしょくたの時代だった。

◆今の若い人達にとっては、その時代のロックにおける日本語論争とか、音楽文化と社会との関係性は不思議な話だと思うのですが、やっぱり当時の多感な子達にはなんらかの影響があったんですね。それをきっかけに、演劇と出会うことになったんですか。

まず、高校に行ってからも、そのままラグビー部だったんだけど、でも、このままスポーツ馬鹿になるのもまずいなと思ってたんで、文芸部にも入ったんだよね。その文芸部に入る要素はフォークソングの洗礼を受けて、言葉にも興味があったから。
そうしたら、その文芸部の部室に寺山さんの『誰が故郷を思わざる』とか『家出のすすめ』とかの本が置いてあって、読んだら単純に煽られた(笑)。

◆僕も昔、寺山修司を「青春の起爆剤」と評したフレーズを目にしたことがあって、なるほどと腑に落ちたことがあります(笑)。で、そのフレーズに更に煽られました。
浅井さんが天井桟敷の舞台を見たのはその頃ですか?

そう。寺山さんの主宰している天井桟敷が大阪にやってくるというので観に行った。
場所はサンケイホールで『邪宗門』。演劇を解体するということで舞台の上で乱闘があったり、黒子役の人が俳優を操っているという設定で騒乱状態になったり、JAシーザーの呪術的音楽がホール中に鳴り響いていて。天井桟敷はすごいと興奮させられた。
それから黒テントや赤テントとか、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーとか、大阪に来るたびに演劇といわれるものを観に行くようになったんだよね。
同時にロックの外タレ、グランド・ファンク・レイルロードとかディープ・パープルとかレッド・ツェッペリンもやって来たので聞きにいった。
ただいろいろ観た劇団の中でも『天井桟敷』は特別だった。当時の若者のバイブル的雑誌『平凡パンチ』では、海外の演劇祭に参加した天井桟敷がロックスターの公演のように紹介されたりしていて、他の日本の劇団とは違って、日本の土着性に加えて海外のロックの匂いや世界のアートの匂いがすごくした。

◆天井桟敷の舞台を始めとした演劇の持っている何が、当時の浅井さんを捕らえたんですか。

演劇には肉体的な表現と言語的な表現の両方があったから。
スポーツ馬鹿にはなりたくないし、かといって青白い文学青年にもなりたくないということを考えていた身としては、演劇は2つの表現が合体されていて面白いと思ったんですよね。

◆求めていた2つのものが上手く内包されていたものが見つかったわけですね。
で、高校卒業後に浅井さんは天井桟敷に入団するわけですが、そんなにすぐに上手い具合に入団できるものなんですか。

高校を卒業した後、すぐに天井桟敷に入ったわけではなく、とりあえず目白にあるすいどーばた美術学院という美大系の予備校に通いだしたんですよ。普通に勉強する気もなかったので、デッサンでもしているほうが面白いかなと思って。
半年くらい経ってから法政大学で天井桟敷の『盲人書簡』という公演があったので観に行ったら、天井桟敷新聞というタブロイド版の新聞に劇団員募集と載っていたんですよ。それで入団試験を受けた。
天井桟敷が発行していた『地下演劇』という分厚い演劇理論誌を読んでいると、美術家だとか、音楽家だとかそういう人達が劇団に参加していて、読んでいるだけで刺激的だったから、スタッフになりたかったんですよね。天井桟敷では舞台監督をやっていました。

◆入団試験では何をやるんですか?

基本的には面接。身体を動かしたりはなかった。何を聞かれたかはぜんぜん覚えていない。
劇団員は劇団の維持費を毎月3千円とか5千円とか出しているけど、お金は1円も入ってこない。だから、劇団に入ってからは、ビル掃除とか、大道具の仕事を見つけたりとか、日雇いの土方とか、高田馬場にいって立ちんぼとかいろんなバイトをやったよね。
天井桟敷では俳優の男性陣はわりと築地の魚河岸で働いていたし、女性陣はホステスをやっていることが多かった。でも、スタッフは、昼間は劇団の練習やミーティングがあるし、夜も遅くまで仕事をやっていたから、不定期な仕事で凌いでいた。

◆お金はないけど、充実した毎日が始まったと。

充実というよりは無我夢中。かれこれ30年以上前のことだけど、当時、住んでいた西荻窪のアパートは風呂なしトイレなしの三畳一間で7500円。
でも、まあ、生きてはいけたよね。ちょこっとバイトをやって。パン屋に行ってパンの耳をただでもらってきたり。西荻ロフトにも飲みにも行けたし。そういう生活を続けてたね。先の不安は考えなかった(笑)。
今だと天井桟敷は伝説の劇団になっているけれども、その頃はアングラの変な人達と見られていたので、胸を張って天井桟敷の劇団員だいう感覚はなかったよね。

◆そうだったんですね。僕が高校生の頃は、所謂、伝説的な劇団というイメージが確立されていて、最初からすごいものだと思って本や映像に接してましたね。で、わかったり、わからなかったり(笑)。今もそうですが。
天井桟敷でのいろいろな経験は、今の浅井さんの財産になっていると思うのですが、特に印象的だった経験はどういったことだったんですか。

天井桟敷は海外公演に行くことができたんだよね。1ドル360円の時代。まだ羽田から海外に発っていた時代。アムステルダムに『疫病流行記』という公演のために行ったのが最初だった。
給料はもらえなかったけど、1、2年に1回、アメリカとかヨーロッパに行けた経験は今でもすごく財産になっている。日本でずっと公演をしていたら、経済的にも豊かになることは一切ありえなかっただろうし、精神的にも疲弊してたかな。
海外ではモーリス・ベジャールや太陽劇団といった一流の連中と同じ演劇祭に参加して、ピーター・ブルックの後に天井桟敷がやったりしていて。演劇界の世界のトップクラスの連中と同じ舞台で一緒の空間を体験できたよね。
でも日本に帰ると、向こうに行っている間に溜まっている三畳間の家賃を払わないといけないというギャップがあるわけだけれども(笑)。

◆海外での実績もやはり生活費には繋がらないと(笑)。表現活動では往々にしてあるパターンですよね。
海外の舞台での反応はどうだったんですか。

僕らは海外の舞台でも日本語のままで押し通してやっていた。だから、言語的なコミュニケーションはほとんど取れていないんだけど、劇場の空間全体を作っていった。
それは照明だったり、舞台美術だったり、俳優の肉体だったり、音楽だったり、そういうものを全部ひっくるめて作り出して、それが、そのままほとんどのお客さんに通用するということは面白かったね。

◆その後、浅井さんは自身の活動を始めるわけですが、どういったことから始めたんですか。

寺山さんが亡くなって天井桟敷が解散した後に、アップリンクシアターという劇団を始めたんですよ。中心メンバーは僕一人で。
やっぱり天井桟敷の舞台監督をやっていたといっても、結局、天井桟敷のオリジナルなものは寺山さんがやって、J.A,シーザーが音楽や演出をやってという。やりがいのある仕事だったけど、ゼロから何かを自分の頭でクリエイトしているかといったら、そうではなかった。
ただ、天井桟敷の劇団員だったというプライドもあった。だから、自分には何ができるかなとなった時に、自分の考えたことをやりたいということで、演出をやろうと思ったんですよね。

◆浅井さんの主宰者としてのアイデンティティのようなものが、いよいよスタートとなったわけですね。
アップリンクシアターが今のアップリンクの前段階にあたると思うのですが、どういった活動をしていたのですか。

当時はローリー・アンダーソンみたいに、ビデオとかのテクノロジーを絡めたパフォーマンスやダンスに興味があったから、そういうことを試みたんだよね。今で言うパフォーマンス・アート的なもの。
ラジカルTVとかも出てきた時代だったんだけど、そういった資本をかけた映像ではなくて、アップリンクシアターではテレビを電気屋から100台くらい拾ってきて、それを舞台に積み上げて芝居をやった。でも、公演を3回やった後は続けていくことができなくなって。個人の力の限界。あと1・2年やっていれば違ったかもしれないけど、劇団というかゆるやかな集団を経済的に継続するのは不可能だった。
公演のチケット代をみんなにノルマとして課して、制作費を捻出してたんだから、続くわけがないよね。宣伝も天井桟敷の時は、ぴあやシティロード、流行通信とかが公演の案内を載せてくれたり、朝日新聞や読売新聞に寺山さんのインタビューが掲載されたりしてたんだけど、アップリンクシアターは扱ってくれなかった。
結局、寺山修司という名前があれば扱うけれども、アップリンクシアター浅井隆は小さな演劇界でさえ何者でもなかったと。

◆寺山修司という名前が大きかった故の反動みたいなものですかね。
活動の全体の維持費を捻出するということも初めてだったと思いますし。経験や人とのつながりはゼロではないですが、活動自体は本当にゼロからのスタートだったんですね。

それで、いったん劇団の継続は無理だということで、編集プロダクションで1年くらい働いた。NHK出版の『サラリーマンライフ』というものを作っていて、自分の興味があるいろんなところに取材に行けた。それは面白かった。
ただ、これを自分が一生やるのかなと思っていたときに、ちょうど、映画監督の山本政志が『ロビンソンの庭』を作るという話になって、プロデュースをやることになったのかな。

◆今ではたくさんの映画をプロデュースされている浅井さんですが、プロデュースはこの作品が初めだったのですか?

そう。『ロビンソンの庭』は、ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のカメラマンのトム・ディチーロが撮影で入ったんですよ。
ちょうどその当時『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が公開されていて気に入っていたので、トムとスタッフがコンタクトを取ったら「やる」という返事が来て。彼もその頃は貧乏で暇だったので日本までやって来たんだよね(笑)。
まあ、しかしこれ以上あの我の強すぎる山本とやっても自分の得にならないと思い、離れました。

◆アップリンクシアターを始めた時も、自分の何かをゼロから始めてみたいということでしたからね。

そこでデレク・ジャーマン監督の『エンジェリック・カンバセーション』をBFI(ブリディッシュフィルムインスティチュート)から買い付けた。
買い付けといっても大袈裟なものではなくて、海外から気に入ったテーブルやレコードを輸入するという感じ。金額は当時で5000ドル、75万円くらいだったから輸入できたんだよね。
映画はもともと興味があって海外に行った時も時間があるといろんな都市のシネマテークに行ってたし、天井桟敷でも寺山さんが製作する映画の現場に、10年間、僕はいたから。『田園に死す』、『上海異人娼館 チャイナ・ドール』、『ボクサー』や、16ミリで撮った短編映画とか。寺山さんが最後に撮った『さらば箱舟』は最初から最後までずっと参加していたし。
上映会も天井桟敷のアトリエで16ミリプリントを借りてきて映写機で回していたし、演劇でお客さんを集める方法はチラシ撒きやポスター貼りということを知っていたので、それと同じ方法論で、演劇と同じように映画でもお客さんを集められるんじゃないかなという発想だった。
だから海外と契約して買い付けても何とかなるかなと思っていた。もちろんちゃんとBFIと契約をしないといけなかったけれども、やろうと思えば誰でもできるよ。

◆僕は当時高校生だったんですが、ちょうどその頃にデレク・ジャーマンの名前を雑誌とかで見かけるようになって、そこにアップリンクのロゴがあったのを覚えています。それがアップリンクの存在を最初に知ったきっかけでしたね。で、映画好きの友達と話題にしたりと。
当時のデレクはどういう存在だったんですか。

彼が天井桟敷のロンドン公演を観に来てくれたり、トニー・レインズという評論家の友人が彼の作品を紹介してくれたりして個人的には知っていた。
日本ではスミスのPVを撮っている面白い監督がいるという程度の認知度はあったけど、ほとんど知られていなかった。

◆その『エンジェリック・カンバセーション』の配給が今のアップリンクのスタートになるわけですか。

そうだね。一人で始めて、映画関係の会社に勤めている友人が仕事が終わってからアップリンクに来て手伝ってくれて。1.5人くらいな感じでやってましたね。
その後、アルバイトを雇って、2人になって、3人になって、そこから20年ずっとやっていると。

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第2章 いろいろなジャンルをひとつの場所に混在させたい

◆アップリンクがスタートした時はどんな状況だったんですか。

目黒に家賃7万5千円の部屋を借りて、そこをアップリンクの事務所にした。ファクトリーを渋谷に作ったのはその10年後くらい。興味のあることはなんでもやってきた。
映画の配給もやっていたけれども、フィッシュマンズが主題歌を作ってくれたフジテレビの深夜の連続テレビドラマ『90日間トテナムパブ』みたいなTV番組をロンドンで制作したり、『骸子/DICE』という雑誌を発行したり。上映やイベントをやるスペースを作って、ギャラリーも作って。

◆『骸子』の創刊は印象的でした。尖がったカルチャー好きの友達の家に行っても、やっぱりありましたし。

『骸子』はアップリンクの活動を宣伝するメディアが欲しくてね。ちょうどその頃、シティロードに毎月10万円で広告を出して、アップリンクニュースを載せて「こういうビデオを出します、こういう映画をやります」と告知していたんだけど、シティロードが潰れちゃったんだよね。で、インターネットも今ほどはない時代だったから、どうやってアップリンクのことを伝えればいいかなと思っていて。
ちょうど、Macの価格が下がって、フォントとかの環境も整って、DTPで本が作れるようになってきて、何かできないかなと思っていた頃だったから、『骸子』を創刊することにした。
当時はDTPでインディーズのマガジンがたくさん出てきた時代だよね。今は大半は消えちゃったけど。

◆ただ、大半の独立系の雑誌が消えたとはいえ、この時代をきっかけに雑誌の多様性や種類が広がって、取り扱ってくれる書店も徐々に増えていって、今に繋がっていると思うんですけど、当時の『骸子』を取り巻く状況はどうだったんですか。

海外ではインディーズマガジンでも総合カルチャー雑誌だった。欧米では総合カルチャー雑誌が文化として存在できる土壌もあったし。
でも『骸子』を出してわかったことは、日本のマーケットの中では音楽だけを扱った専門誌のほうがその業界の広告が入るということ。日本では総合カルチャー雑誌には広告が入らない。結局雑誌はある業界の宣伝ツールにならないと経済的に継続できない事がわかった。

◆『骸子』にはジャンルを限定せずにいろんな人や物が載っていましたよね。他の雑誌では取り上げないカルチャーシーンの動向が、かなり早いタイミングで載っていましたし。

『骸子』は自分のところの配給作品だけじゃなくて、他社の配給作品でも面白かったら扱ったし、いろんな人物や音楽を紹介したし、ファッションもお店ができれば紹介したし、ギャラリーも紹介したし、面白そうなところをどんどん紹介した。
いろんなジャンル全部を一緒に紹介できるメディアは雑誌かなと思って。そうやってメディアをひとつの場所にすることができたよね。

◆その『骸子』が持っているいろいろなものがあるという誌面の形を、現実の空間に置き換えると今のアップリンクになっているような気がします。今のアップリンクの前段階であったというか。

そうだね。『骸子』から、今のアップリンクのコンセプトはっきりした形になってきた。それはわかりやすく言えば、“ごちゃ混ぜ”。
書き言葉でいえば、“多様性”。

◆演劇に惹かれた理由もそうですし、複数の価値観が混在しているというところに、浅井さんの求めている形があるということですか。

やっぱり天井桟敷時代に行った海外ですごく印象的だったのが、カルチャーセンター的な場所が存在するということだったんだよね。
ロンドンだと天井桟敷の『奴婢訓』という公演をやったリバーサイド・スタジオや、テムズ川沿いのICAというスペース。カフェがあって、シネマテークがあって、ギャラリーがあって、ダンスができるところがあって、リハーサルルームもあって。それがトータルでひとつの建物の中に存在していた。日本だと公会堂とか公民館のレベルだけど、それがもっとトータルに活動が行われているという場所を体験したんだよね。
ニューヨークでも、今はなくなったCBGBの横にラ・ママという劇場があって、その通りの角のフィービーズというカフェバーにみんなが集まっていていろんな話をしていた。そこのゾーン一帯に文化的な雰囲気が漂ってたね。
ひとつのカルチャー、ひとつのジャンルだけではなくて、たくさんのジャンルが混在していて、それを僕は面白がっていた。だから、『骸子』では自分が肌で経験した、いろんなジャンルがひとつの場所に混在していることの面白さを実現しようと思ったし、アップリンクでもそういう場所を作ろうと思って今の形態になっているんだよね。

◆やっぱり作品や思考が実際の場という力を持つと強いですよね。人や物が集まるとメディアとしてのパワーもより増しますし、そこから新しいことも生まれてきます。特に今は場の力にみんなが魅力を感じて集まってきていると思われますし。
制作事務所があって、イベント・上映スペースのアップリンクファクトリー、ミニシアターのとアップリンクX、アップリンクギャラリー、飲食スペースのタベラという場所があって、ワークショップも開催してと、今のアップリンクの形態はかなり浅井さんの目指してきたものに近いのではないですか。

でも僕が最初に体験してカルチャーショックを受けたイギリスのリバーサイド・スタジオやICAのような場所に比べると全然規模が小さい。
一中小企業が東京で賃貸できるスペースには限りがある。今のスペースは渋谷で地の利もいいけど、少し遠くても僕の原点である演劇も、もっと大きな音が出せるライブができるスペースを持った施設を作りたいといつも可能性を探している。

◆外にある実際の空間ではないですが、ネットの空間も機能が発達してこれからますまずクロスメディア化していきそうですよね。口コミ的なネットワークも発達してきていますし。
特に映像に関しては個人が作った作品を、本人がアップしてみんなに伝えていくという動きが加速するのではないかなと思っています。近いうちに今よりもいい画質で大きなフレームで、映像を見ることができるでしょうし。テレビに近いものになると思います。
となると、個人のTV局的なページも出てくるのではと。もともと映像は立体性がない2次元メディアですから相性もいいと思います。上映という難儀な問題もある程度解決されますし。もちろん劇場の迫力はないですが、逆にそれを生かしてフットワークのいい活動もできると思います。
浅井さんは表現活動におけるネット上での可能性を、アップリンクとどうリンクさせていこうと考えていますか。

まさにそれは今考えてやろうとしているところで『webDICE』というプロジェクトを進めています。これは雑誌の『骰子』を休刊していたときから次はネットでと思って、具体的にイメージができてから5年も経っているという僕の中ではなかなか進められなかったプロジェクトですが、なんとか今年中には形にします。
やっとめどがたちそうなのは、いわゆるweb2.0の時代になり、僕がネットでやりたいことがはっきり見えてきたからです。要するに今はweb2.0とかというマーケティング用語的な曖昧な言葉があるけど、その一番の特徴はCGM(コンシューマー・ジェネレーティッド・メディア)。要するにユーザー参加メディアが実現できるようになった。
例えば僕はいまあるアップリンクのファクトリーやXやギャラリーそしてタベラをネットでいうCGM、要するに観客参加型の施設を運営してきている訳です。僕の原点でもある天井桟敷でも舞台の上で俳優が演じる演劇で完結するのではなく、観客参加という演劇のCGM化を常に模索し実験してきた。 紙の雑誌では読者の声を反映させるのは物理的に1ヶ月以上かかったけどネットならすぐできるし、読者が情報を発信することができる。しかも多様な情報をネットなら無理なく扱え、検索することができる。
僕の原理的なコンセプトである“ごちゃ混ぜ”“多様性”をネットなら難なく扱うことができる、それは従来の新聞や雑誌のような力を持ったメディアからの一方的な発信ではなくてユーザーがメディアの編集者と同等の力を持つCGMであるということ。ネットの技術が僕のやりたい事にやっと追いついたので『webDICE』が実現できる。

◆これからのネットが向かう先と浅井さんがもともと持っている原理的なコンセプトは合致していますよね。
今のアップリンクは実際に外の空間での多様性を既に持っていますが、それを『webDICE』とどう連動させていけば、もっと面白くなると思いますか。その点でアップリンクの次の展開について考えていることはありますか。

海外で僕が体験してカルチャーショックを受けたのが複合型カルチャースペースで、もう一つは80年代当時のタウン誌、ロンドンなら『Time Out』、ニューヨークなら『Village Voice』でした。
当時はネットがないのでそれらの雑誌が街で行われているイベントにアクセスする唯一の手段だった。そして、それらが日本の『ぴあ』と違ったのは、ジャーナリズムの視点があったこと。そこの街のニュースや特集を政治的、社会的な話題も扱い、文化情報と同等の視点で編集されていた。
それに大体海外では『ニューヨーク・タイムス』でさえ、編集者が面白い価値があると思えばそのイベントなり映画なりをどんなに小さなイベントでも紹介する。
日本で小さなイベントをや小さな映画を配給するときに、なかなか最適の宣伝方法が今のメディアにはない。「東京一館だけのレイトショーはちょっと、うちは全国誌なので、でも個人的にはこういうのが好きなんですよ」となる。
でもそういう雑誌は、パリの小さなブティックのアクセサリーを紹介していたりする。そのアクセサリーに読者の何人がリアルにアクセスできるのか。なら東京の単館でしかやっていない映画でも読者に紹介する価値を編集者があると思えば紹介すればいい。
また、雑誌は発行のコストがかかるから、カルチャー誌に取り上げてもらおうと編集部に行くと「紹介しますけど、広告を出してもらえますか」と編集者に広告営業をかけられる。
要するに日本のメディアまして情報誌にはジャーナリズムの視点なんてかけらもない。それならネットで自分たちのメディアを作ってやれと思ったわけです。ジャーナリズム的視点を持ったカルチャー系ポータルサイトを。
今進めている『webDICE』は、東京のカルチャーシーンやライフスタイルにおいて最も重要なメディアにしたいし、なると思います。街で起きている小さなイベントも面白ければ価値があれば紹介していくし、イベンターやユーザーが自ら発信できる仕組みを作っていく。
僕が80年代に海外に行った時に必ず読みあさったタウン誌はそれだけでは完結するものではない。なにかを探したり、どこかにいくための情報を得るための雑誌で、常にそこには読者の行動が伴っていた。
要するにセカンドライフ的なネットの世界で完結して社会と繋がるポイントがネット上のお金をドルに替える事ができるという金儲けだけのweb2.0には全く興味がない。
そしてアップリンクが他のIT企業と違うところは、映画館やイベントスペースといったリアルな「場」を持っているところであり、リアルな映画やイベントを作る力があるところ。だからアップリンクがIT企業になればユニークな存在になれると確信している。
『webDICE』のコンセプトは「書を捨てよ街へ出よう」ではなく「ネットにアクセスして街へ出よう」「街に出てネットにアクセスしよう」というネットとリアルな社会とを往復する行動を刺激する装置にしたい。

◆リアルな場でのごちゃ混ぜ感、ネット上でのごちゃ混ぜ感、それらを単独で完結させて満足するのではなく、その2つを連動させて活発に相互的に行き来することで、みんなが自分なりのアクションを起こせば、今ならではのパワーがその行動には宿りそうですよね。何か探究心や反骨心を持っている人にとっての、ひとつのきっかけになるというか。
広告メディアになってしまっている日本のメディアの現状に対して刺激的なムーブメントが起こせそうだと思います。自分の情報発信も自分のメディアでやる、自分の言葉で伝えるというひとつの流れが今後ますます生まれていくのは止めようもないですしね。そういう意味でネットの可能性は個人に力を与えると思います。
時代が追いついてきたということでしょうが、ずっと浅井さんが意識してきた、いろいろなものが混在する場というものはこれからどうなっていくと思いますか。

僕の言っていることはなんにもオリジナルなことではなく、例えば街自体はごちゃ混ぜだよね。

でも行政側からすると風俗地域はここに押し込めておこうとか、ミッドタウンには世界のブランド店を集めようとか、インタビューを今しているここ下北はごちゃ混ぜすぎるから災害時には危険という理屈で大きな道路を造ろうとか、政治、経済の原理で管理され整理されていく。
雑誌にしても結局はモノを売りたいから専門誌の方がターゲットがはっきりしているので音楽誌でレストランのことは扱わないし、映画雑誌で下北の問題は扱わない。人間は映画も見れば音楽も聴くしレストランに行くし、洋服も買うという基本的にごちゃ混ぜな行動をしているし、多様な価値観で世界は構成されている。それを政治と経済の理由で管理しやすさ、洗脳してモノを売りやすいという理由だけで今の世界は“非ごちゃ混ぜ化”の力が大きく働いている。それは“自然”ではないということです。
さらに地球単位で見ても均一の価値観を押し付けようとするグローバリズム、多国籍企業の力、キリスト教の力、アメリカが標榜する民主主義の力による世界の均一化が働いている。
今の社会で“自然”であるということは相当な力で“非ごちゃ混ぜ化”の力と闘わなくてはならないのも事実。実はアップリンクのやっていることはそういった“非ごちゃ混ぜ化”の力との闘いだと思っています。

◆映画も観れば、レストランにも行くし、服も買うしという普通の休日の過ごし方に対しての、既存の情報メディアの経済性を優先した洗脳にしても、下北沢のごちゃごちゃ感はけしからんという行政的価値観からくる再開発にしても、ひとりひとりが多様性を持っているという当たり前の個の在り方が、浅井さんが言うところの”非ごちゃ混ぜ化”の先端なんだし。
でも自分の根源に関わる問題として気に掛けていない人が多いのかなとも、残念ですが僕は思っています。その一方でさっきのネットやリアルを行き来して、自分の価値観や言葉で個の持つエネルギーを発散していこうとするアクションは、おかしいぞ、ということを変えていくきっかけになるのではという希望も持っています。
結局は自分は何をやるのかということだと思うのですが、浅井さんのように、これから自分でカルチャーというジャンルで事務所を立ち上げようという人にとって必要なことや、気をつけないといけないことはなんですか。

ナイキもいい事をいうときがある、Just Do It。自分の好きなようにまずやってみること。

◆そうですよね。そこで、独立系の事務所が、自分達のやりたいことを継続していくためには、規模を大きくしすぎてはだめだと僕は考えています。
自分のやりたいことをやっていたはずなのに、規模が大きくなるとそれを維持するためにやりたくないこともやらないといけないと思うので。大きなところと組んで規模を拡大する場合も結局は取り込まれるか、使い捨てという結末で終わることが多いでしょうし。
でも、大きくない規模だとやはり世間一般的にはカウンターなんだと思います。それを良しとするのでいいとは思うのですが、もし、各地にある各ジャンルのそういったところが、ゆるやかにできる範囲で連帯できたら、もっと「あっ」と言わせることができるのかなと思うのですが。

“多様性”をつきつめると、最後は人間一人一人違うということで、それは企業のような顔が見えない大きな単位とは全く違う人間一人のサイズだっていうことですよね。
だから“多様性”をつきつめるなら規模を大きくしては駄目なのは自明です。最小の単位は個人になるべきです。ただ、個人だとできる事にも限界があるので同じ価値観を共有できる仲間と最小の集団を作ればいい。
今は、インディーズのミュージシャンのゴールがメジャーレコード会社に所属することではなく、起業した会社のゴールがブランド大企業の下請け仕事をする時代ではないということは、はっきりしているので、そのためにはゆるやかに価値観を共有できる個人や事務所や会社とのネットワーク作りが大切だと思います。
アップリンクであったことだけど、あるアーティストがDVDをリリースしたいと、それがいわゆる大手企業とアップリンクが競合する場合、大手の方が最初にお金を出すことができるのでそのアーティストはそちらと契約をしてしまう。
大手DVDメーカーの担当者とアーティストは価値観の共有ができても本当にその大手企業のトップの考えていることや外資ファンドが株主になっている大手企業のポリシーと考え方を共有できるのかなと思います。目先の金が大事なのはわかります。でもこっち側サイドと仕事をやろうよと思う。
まあ、ちょっとこのケースは愚痴めくけど、言いたいことは独立系の事務所や会社は意識してネットワークを組まないと大企業の力には対抗できないということ。結局はとりあえず資本主義社会においては、僕らが大手企業に最終的に対抗できるようになるには“志”だけでは勝てなくて、“金”で勝つ方法論を持たなくてはだめ。そのためには彼らに僕らの金を渡さない、僕らのネットワークでそれを廻すことが大切だと強く思います。

◆自分の“志”に基づいてやりたいことをやり続けるためには、浅井さんの言う“金”で勝つ方法論の確立は本当に大切だと思います。“志”も“金”も渡さないと。今まで多くの独立系の事務所ができなかったことですし。
今後は政治的・経済的な流れに沿ったものと、そうではないものとに二極化していくんだろうなと思っているのですが、事務所ということに限らず、あらゆる場面で“個”のあり方がこれからの世界では重要になってきそうですね。“個”対反“個”という局面が多くなってくるというか。
いろいろとお話を伺ったのですが、そこで、アップリンク全体としての今後の展望はどういったものになるのでしょうか。

会社の機能を「メディアであること」と「クリエイティブであること」の二つに分けて考えています。
「メディアであること」としてはカルチャーセンターを本当に作りたい。そしてアップリンクだけに限らないメディアとして『webDICE』を始めることです。「クリエイティブであること」は映画やオリジナルのイベントをもっと加速して数多く作っていきたい。

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第3章 複雑な人間の感情や現実を映すメディアとしての映画

◆アップリンクでは設立から多くの映画の配給や制作を手掛けています。映画も浅井さんの言う多様性を持っているメディアですよね。

今ある人間が作り出している表現手段の要素が総合的に入っているメディアが映画だよね。グラフィックの要素もあれば、音楽の要素もあれば、俳優は演じるわけだし、美術も作れる。
まあ、時間軸を強制させられるとかまだ不具合はあるけれども。ただ現実的なレベルで言えば、かなり総合的なメディアだよね。

◆アップリンクファクトリーでは、日常的にたくさんのドキュメンタリー映画を上映していますし、最近は特集上映も多くなっていますよね。最近も浅井さんがパンフレットの中で「今はドキュメンタリーが時代を映している」ということを記していましたし。
一方で今は邦画の劇映画が好調だとも言われています。テレビ局制作のものとか、原作小説を絡めてのメディアミックス・プロモーションを展開するものとか。今の邦画の劇映画は浅井さんにどう映っていますか。

今は現実の複雑さに対抗しきれない劇映画が多いよね。劇映画では、映画という機能をフルに使って作られていない。
最近は興行の論理が勝ってしまっているよね。特に日本の場合は観客の感情に訴えて、泣かしたり、悲しませたりする「感動」というキーワードが観客の満足度を高めるということになってしまっているから。

◆純愛系で「泣く」のは、ホラー系で「怖がる」ことと並んでブーム以降も、基本形のひとつとして定着した感がありますからね。制作側も最初からそれを狙って、プロット段階から作家に本を発注しているでしょうし。
しかも、そういった映画は、シネコンが整備されたという状況と相まって、家族やカップルの休日の過ごし方のひとつといった性格も持ってきています。やっぱりみんな、手っ取り早く感動して泣きたいんですかね。

そうだと思うけど、実際の人間の感情パターンでいうと、泣き笑いで悲しいとか、怒りながら笑っていてとか、例えば、長い間寝たきりの親族が亡くなった時に悲しいけどほっとしたとか、複雑で簡単には言えないリアルな感情がそれぞれの観客に経験値としてあると思うんだよね。恋愛にしても好き嫌いだけではなくて、嫌いだけど好きとか、複雑な感情がある。
でも、それを今の映画はシンプルにしすぎていて、ケミカルなドラッグみたいにある部分だけを精製して観客に打っている。ナチュラル・ドラッグのように、複雑な効き方が長く続いたりするようなものを作ってくれればいいんだけれども、あまりにも即効性重視の覚せい剤みたいな劇映画が多い。 現実はもっと複雑だし、映画はその複雑な現実をトレースしただけではない、想像力でさらに膨らませる事ができる表現メディアなのに、その作業をクリエイター側が怠っていると思う。
理由は単純なほうが観客は喜ぶから。瞬間的にだけどね。テレビの演出がそうだよね。ケミカルの方が原価は安くでき、大量生産できて供給を安定させられるからね。

◆今の即効性や強い映画に飽き飽きしている人も多いんじゃないかとも思うんですけどね。製作者側の仕掛けにそろそろうんざりしている人も多いというか。それとも、その仕掛けもわかったうえで楽しんでいるんですかね。

僕もジェットコースター的な快感を求めるときはあるけど、そればかりというのに不満を感じている人も多いと思う。現にハリウッド映画の売り上げは落ちてきている。

◆では、今の劇映画に対してドキュメンタリーはどうですか。

ドキュメンタリーの場合には、生の人間が出てきているから、表情をひとつとっても、演出家が演技指導しているわけでもないし、その人の人生が映ってくる。だから、かなり複雑な表情を観客に伝えることができると思う。
例えば、人物ドキュメンタリーだったら、登場人物の複雑な考え方なり感情に対して、観客が一通りじゃない感じ方をできるし。あるいは、優れたドキュメンタリーだったら、あらかじめある答えを観客に押し付けるんじゃなくて、観客はドキュメンタリーを通した現実を見て、いろんな考えを持ったり、想像力をめぐらせることができる。
今は、映画の機能を最大限に使いきっていない劇映画が多いから、ドキュメンタリーのほうが面白いことの方が多い。

◆DTPが発達して自分で雑誌が作れるようになったように、今は撮影機材も安くなったし、パソコン内で編集できるようになったので、フットワーク軽く、自分でドキュメンタリー映画を作ろうと思っている人も多いでしょうしね。劇映画だと役者やセットを揃えたりで、まだ大変だと思いますが。
ドキュメンタリーに比べて、劇映画で複雑な感情の動きを表現するのは困難なことでしょうか。

それは違う。僕は劇映画を否定しているわけではないし、劇映画は複雑な現実を表現するのに最も適したメディアのひとつだと思っている。
正確には、絵画や小説や音楽よりも、劇映画という表現メディアは、想像力を駆使して複雑な現実を更に作り変えるのにふさわしい特性を持っているということ。
でも、今の作り手はそれを使いこなそうとしていない。ある感情が即効で観客に効くということがわかれば、そこだけを強調しすぎる。それはジャンキーになったり、麻痺したり、悪影響を及ぼすんだよね。ナチュラルに作るほうが、難しいじゃない。シンセサイザーやサンプラーの音だって本物のピアノやまして人のボーカルを機械だけで再現するのが一番難しい。

◆今は、ドキュメンタリーのほうが映画の持つ現実を映す特性を、監督が使いこなせているということですか。

使いこなせているのではなくて、ドキュメンタリーのほうが、被写体がリアルで複雑ということ。それをそのまま写しているから、きちっと画に撮れてさえいれば、リアルで面白い人が映っているドキュメンタリーのほうが、劇映画よりも面白いでしょと。
面白くない人を追いかけているドキュメンタリーは面白くないよ。で、面白くないドキュメンタリーは面白くない劇映画同様つまらない。

◆もし、現実を捉えた劇映画を作りたいなら、新聞の社会面を見て気になる事件をメモして脚本にすれば、面白いものが作れると思いますか。

それだと現実のトレースでしかないから。トレースしているだけだと現実のほうが面白い。ニュースでも見て、自分の想像力を働かしていたほうがいいし。
ニュースや新聞の記事からは見えてこないことを取材して、想像力を駆使して構成をして、映画にしていかないと面白くはならないと思うよ。

◆ニュースが伝えない背景にあるものを想像して、そこに作者として手を加えて物語化していかないと劇映画としてだめだと。
では、最後に。単純で簡単な快感・快楽を与える劇映画が観客に大手を振っている状況で、今、複雑な現実をドラマツルギーとして作品化しようとドキュメンタリーや劇映画を手掛ける人、それらを好んで見ている人、こういった人が求めている快感・快楽とはどういったものだと思いますか。

それは知的好奇心を満たす快楽だよね。これは人間の持っている快楽のなかで一番尽きないもので、男女年齢を問わず死ぬまで衰えない。
食欲とか性欲とか生命力は落ちてくるけど、人間は一週間後に死ぬとわかっても人の話を聞くと思うし、食べた事のないおいしい料理を食べたいと思う。本を読むかも知れないし、映画も見ると思うし旅行に行くかもしれない。
どうせ死ぬんだったら、世界のことをこれ以上知ってもしょうがない。遠い国のことを知ってもしょうがない。他人のことをこれ以上知ってもしょうがない。でも、世界のシステムがどうなっているかを知りたいという欲望は尽きないのではないかと思う。

人は必ず死ぬ、でも死ぬまで世界のことを知りたい、それは世界を知ることによって自分の存在が世界のどこにいるのかを認識できるからだと思う。要するに人は死ぬまで自分を認識する作業を繰り返している。逆にいえば世界の中で自分がどこにいるかを認識するために人は生きている。
このインタビューを読んでいる大概の人はまだ死が遠い事と認識していると思います。そうすると先行きの不安から、もし今自分のやりたい事でなかなか食えない場合、こんなに経済的に苦労したりしないで派遣に登録して仕事したり、企業に雇われた方が収入も安定するし生活も楽になるかもしれないとつい思ってしまうかもしれない。
でも人には等しく死が訪れる、ならば、どうせ死ぬのなら本当にやりたい事をやる時間と金を稼ぐ時間を区別しないで自分の好きな事をいろいろ調べてトライ&エラーでやった方が精神的に健康になれるし、面白いでしょ。自分の知的好奇心を満たす欲望をフル回転させて“自然”に生きていけばいい。
反対から見れば自分の知的欲望をフル回転させていない人は、生きていない、死んでいるも同然ということだよね。世界を均一に管理しようと思っている側はそういう死んだも同然な人が多くいてくれた方がいいと思っている。その方が管理しやすいからね。そういう側は、知的好奇心なんか皆持ってくれるなと思っていると思うよ。
ましてや個人個人が自分が世界の中でどこにいるかをはっきり認識されたら世界を均一にしようとする側、非ごちゃ混ぜ化の側は困ると思う。
そしてその自分が世界のどこにいるのかを認識するのに現時点での最適なメディアは映画館で観る映画だと思う。この論法で行くと映画は世界を変える可能性があるメディアであると。

だから僕は映画に惹かれるわけです。

浅井隆(アップリンク主宰 asai@uplink.co.jp)

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フリーペーパー「kate paper」より
浅井隆ロングインタビュー

インタビュアー:山本貴政氏