田中 聡(作家)

「気まずい沈黙からの展開」

ラグビー選手たちの講習会のシーンが面白い。ボールを抱えて横倒しになった相手の上に覆いかぶさって踏ん張っている選手を、なんとか排除したい。どうしたらいいかと問われた甲野善紀氏は、両手で選手をはねのけ、身体の下のボールを取って見せる。囲んで見ていた人たちは、しばし無反応に沈黙する。しらけたような間があく。

 たぶん「いや、そうじゃなくって」と言いたかったのではなかろうか。でも、なにが「そうじゃない」のか。それもよくわからない、宙吊りになった感じ。

 えーっと、いまのは何ですか?

 もし、エーイッと気合でも発しながら相手をひっくり返したのなら、おーっと驚きの声が上がったのだろう。でも、まるで普通にあっさりと引き剥がしているようにしか見えないので、なにかの間違いみたいな気がして、なんと言っていいものか、気まずい感じに黙ってしまい、次には「普通は剥がせないんですけど」と注釈してみたり、選手に「もっと真剣に踏ん張れ」と声をかけたりせずにいられなくなる。そして何度も実演を見るうちに、だんだんそれをなんとか学び取ろうという顔つきに変わってくる。

 そんな人の気持ちの揺れ動きがナマに伝わってくるところは、なんといってもドキュメンタリー映画ならではの面白さだ。

 この映画は、古武術研究家、甲野善紀氏の武術の技法が介護、スポーツ、楽器演奏、演劇などに影響を与えつつある現状の紹介を主軸としており、映画中にも出てくる『身体から革命を起こす』という本と姉妹関係にあるかのような内容だが、体験者の気持ちの微妙な動きを伝える説得力は活字のおよぶところではない。文章で記せば、なんだか嘘っぽくなるだろう。ただし、そんな嘘っぽさもまあ大事ではある。ラグビー選手たちの沈黙のような、しらけた空気が、もしかしたらとても大事かもしれないから。

「身体操作術」といえば、身体を動かす方法のことと理解される。しかし、この映画のタイトルの意図はおそらく、身体の鍛錬とは機械のよりよい操縦法を発見するような探求であるべきだという、甲野氏の技法的な発想そのものを伝えたかったのだろうと思う。一般に鍛錬といえばすぐに筋肉増強的なトレーニングを思うのに対してのアンチである。むろん一般的にも身体は機械のごとく思われていて、そのより効率的な運用法という発想もされているのでまぎらわしいが、その機械は筋力によって動くメカニズムと考えられているのに対して、甲野氏の「操縦」している身体は、そのような力学的構造のうちにあるものではない。

 たとえば、ある動作を行うのに、上下、前後、右旋左旋という三つの異なった方向に向かう動きを行い、それが結果として合成されて目的とする動作となるようにするという技法が登場するが、ではその合成されることにメカニカルな根拠があるのかといえば、ない。また「足裏の垂直離陸」という技法では、足裏に均等に体重がかかるようにして足を上げるというのだが、そのとき足が上がっているようには見えない。つまり感覚的に上げているのであって、客観的に上げているわけではない。かといって「上げるようなつもりで上げない」というのでもない。「上げているけど、上がっていない」というべきなのだろう。要するに、甲野氏が操作しているという身体は、我々が思っている身体ではないということだ。  だから説明を聞いて同じようにやってみようとしても、我々がこれまでの日常で思ってきたままの身体をとらえているかぎり、誤解が生じてしまう。身体観を変えていくこと自体が技法の展開となるのだから、じつのところ体感によらない理解は困難なのである。

 したがって甲野氏について記した文章を読んだ人が、なんだか嘘っぽいと感じたとしてもむしろ当然で、その印象こそ、この身体観の違いの産物であり、それはちょうどラグビー選手を引き剥がすのを見た人たちが沈黙していた時間のようなもの、別の身体観に気づくチャンスだと言える。この映画では、その気まずい沈黙から始まる展開をわずかな時間のうちに見せてくれていて、印象的だった。 結局、この「身体操作術」という映画が伝えているのは、「操作術」の巧みさや有効性ではなく、その前提となる「身体」のとらえ方の持つ可能性だろう。

 たとえば介護に応用された技法で筋力によらずに人を起こすなどの体験をかさねるうちに、自分の身体が、人と互いにコミュニケーションしている身体であることに気づき、そのことの心地よさや愉快に気づく。そのような証言のうちに、この映画のメッセージがこめられているのだと思う。終わり近くで受講者が語る「やってみたい」という声の明るさが、見終えての余韻を爽やかにした。

岡田慎一郎(介護支援専門員・介護福祉士)

「古武術介護と身体の可能性」

 介護職の現状を指し、「使い捨てのコンタクトレンズのようなもの」と受講生が語る。

 コンタクトレンズは大事なものだが、無くなってもすぐに替えがある。介護職も無くてはならない重要な存在であるが、日々の激務で身体が壊れれば、すぐに別の「替え」がやってくる。しかし、家庭介護の家族にはコンタクトレンズのような「替え」はない。もっとも、介護職である私達自身の身体に「替え」はないわけだから、どちらにしても問題は深刻である。

 そんな現状にある介護を取り巻く環境は閉塞感に満ちている。

 「介護は心でするもの」確かにそうである。しかし、厳しい現場の前で精神論は虚しく響くだけである。

 具体的に我々が手をつけることが出来る問題。まずは身体を壊してしまう技術の見直しをと試行錯誤するが、現場での可能性は見えにくい。憂鬱な気分で、介護は身体を壊して当たり前とあきらめかけた時、「古武術介護」なるものに目がとまる。何やら怪しい気もするが、背に腹は変えられない。そんな切迫した熱気を「古武術介護」の講習生には感じる。

 私が甲野師範と出会ったのは3年前。既存の介護技術への限界を感じ、試行錯誤していた時、偶然テレビで武術を応用した介護技術を見たのがきっかけである。結局は筋力がないと仕方がないと諦めかけていた時、筋力でない「術」を目の当たりにした。早速、講習会に参加し、介護にこだわらず様々な技を受け、予感は確信へと変わり、武術を応用した介護技術を甲野師範より学び、現場への活用を研究、実践するようになった。

 映画の中で私が30キロは差がある受講生を相手に「添え立ち」という技術を行うシーンがある。脚力が弱り床から立ち上がれない、また、ベッドや車椅子からずり落ちてしまった相手を立ち上がらせる技術である。通常の筋力では明らかに不可能な状況である。代表的なテキストには腰を痛めるので1人ではせずに、2人以上で行うことと書いてあったり、また実際に教えられてもいる。それが私も含め誰もが当たり前と思っていた。だから初めて甲野師範にこの技を受けた時の衝撃ははかりしれなかった。映画ではしゃべりながら事もなげに相手を立ち上がらせている。「おおっ!」と会場がどよめく。介護技術の講習会でそのような反応はめったにあるものではない。自分で自分の技術を見ても実に不思議に思う。この技術は誰しもが現場で頻繁に使うものではない。場合によっては使わないですむこともありうる。しかし、声が上がったのか。それは私も感じた筋力を超えたチカラ、「術」の存在を確かに感じたからであろう。しかも、そんな無理と思われる状況に受講生たちは果敢に挑む。失敗する、成功する結果は様々だが、筋力に頼らない身体操作の質を高めることにより単なる介護技術にとどまらない、介護予防や身体を通したコミュニケーションなど幅広い可能性も感じたようである。

 映画では、猛スピードで技の術理を展開していく甲野師範の姿が時に静かに、時に躍動的に描かれている。そんな姿を見ながら、使い捨てにならない身体への信頼感を感じずにはいられなかった。そして「替え」の無い我々の身体はまだ始まりさえも迎えていない。そんな可能性に満ちた身体を気がつかせてくれた映画であった。