映画『ヴィダル・サスーン』を配給するにあたって

VIDAL SASSOON THE MOVIE

vidalsassoon

後で知った事だが、2010年に完成したこの作品は、いくつかの配給会社が買付けをパスした作品だったようだ。またアップリンクで公開を決めてから相談した美容関係者からも、美容師には面白いだろうけど一般の人にはどうなだろうかとも言われた。理由はヴィダル・サスーンの日本での知名度なのだろう。美容の世界では知らない人がいないくらい有名でも、一般の人となると知っている人は少ないというのは残念ながら事実だ。 でも、この映画を観た人は分かったことだろう、彼がいかに美容の世界で革新的な事を成し遂げたかを。年表を見ていただければ分かるが、彼が最初にロンドンのボンド・ストリートにサロンをオープンしたのは1954年。日本は敗戦から9年経ったばかりで、テレビはモノクロの時代だった。そんな時代に、それまでのオカマを被せてセットするのではなく、小さなハサミ一つでサスーン・カットを行ったのだ。今や当たり前になっている美容院での“カット&ブロー”、サスーンがもしいなければ誰かがやっていたかもしれないが、今の美容はサスーンなしではあり得ないという事がこの映画でよく分かる。

今ではあまりにも当たり前の事でも、過去には変革した男がいたのだ。ここまでは、美容業界向けの内容かもしれないが、これだけでも十分公開して知ってもらう価値があると思った。
そして、僕がこの映画に、ヴィダル・サスーンに惹かれたのは、美容の世界を変えたクリエイターの部分も大きいが、一人の実業家の人生としてユニークで、常に既成のやり方を変えてやろうという信念とビジネスマインドを持っているところだった。「ヘアスタイルをアートの領域まで高めたかった」とサスーンが言う、“アートとビジネス”をどのように両立させるか挑戦を続けたところに最も興味を持った。

このパンフレットのインタビュー取材でも答えてくれた、当時サスーンのサロンで仕事をした川島さんと茂木さんも“働く事”を学んだと語っている。アップルが新入社員に送るメッセージにはこう書いてあるらしい――「ただの仕事とあなたの人生の仕事があります。それはあなたの指紋が残る仕事。決して妥協しない仕事。週末を犠牲にしてもかまわない仕事。アップルでは、そんな仕事ができます。無難に過ごしたい人はここには来ません」。労働基準法を考慮すると、日本の企業はこんなメッセージを社員には発せないだろう。サスーンのサロンでも、新しいヘアスタイルを開発する時には、サスーンの号令一つでスタッフが週末集まり、夜を徹して新しいヘアスタイルを開発していた。言ってみればカットしても一晩経てば伸びてしまう「たかが髪」だが、そこに情熱を傾けていた。既成の価値観を打ち破り、変革し、全く新しいものをつくる、新しいことを起こす、そのためには圧倒的な“熱量”が必要だ、それがサスーンには溢れている。このことは美容業界の人でなくとも多くの人に伝わる事だと思い、僕はこの映画を配給する事を決断した。

骨格に合わせて髪をハサミで彫刻を彫るようにカットする方法をサスーンは9年間で完成させ、その9年間が最もエキサイティングだったと彼は語る。確かに映画でもそのスウィンギング60's時代が一番映像的に魅力があるのだが、どんな仕事でも、一度完成したからといってそこに留まる訳にはいかない。サスーンの技術を一つのサロンとそこのスタッフのなかで標準化することは可能だろうが、2店舗、3店舗と増やしていきたいなら、当然本人の身体は一つなので、信頼できるスタッフに店を任せることになる。そこで必要な新しいスタッフの教育をどうするか。アパレルではデザイナーがデザインした同じ服を製産し、いくつもの店舗で販売すればいいが、美容はお客と一対一の商売なのでサロンのビジネスは機械化もできなければ大量生産もできない。サスーンが言うように、重要なのは会社とは“人”でしかないのである。

そこでサスーンは「ヴィダル・サスーン・アカデミー」を69年に開校する。学校で教えるためには、技術を誰もが習得できるメソッドにしなければならない。そのメソッドを作り、現在にいたるまで多くの美容師を育てた功績は大きいが、店舗を増やしていくサスーン自身のビジネスには必然のことだった。
そしてサスーンはアメリカに進出する。サロンだけではビジネスに限界があるので、一般消費者に向けて販売するヘアケア商品を開発する。現在、世界で販売されているシャンプーやヘアアイロンなどは、単に名を冠しただけのライセンス商品ではなく、サスーン自身が開発したものだ。『ヴィダル・サスーン自伝』を読むと、リンス入りのシャンプーも開発し、サロンにはマッサージができる部屋を設けたり、男性専用のサロンもオープンしたりと常に新しい事に挑戦していたことが書かれている。

さらに事業を拡大したいサスーンは、サロン部門は手元においておき、シャンプーなどのヘアケア部門をのど飴で有名なヴィックス社に1983年に売却する。彼には世界中の女性を自分が開発した商品で美しくしたいという夢があった。ヴィックス社はサスーンの意を汲んだ世界展開をする計画をしていたが、その2年後ヴィックス社はP&G社に売却され、サスーンは全くビジネスには関わることはなくなった。ただ、サスーンの夢だった世界中で販売されることは実現した。

成功した実業家が最後に考えるのは後継者をどうするかだろう。そこでサスーンは、優秀な幹部スタッフたちにモチベーションを与えるために、サロンを買収できる権利(LBO:レバレッジド・バイアウト)を与えた。しかし、創業者でないものが会社の実権を持つとうまく行かないのも世の常である。幹部社員たちは仲違いし、結局、2003年にヨーロッパのサロンチェーンの大手リージス社にサロンとアカデミーを売却してしまう。自伝によると、サスーンの息子イランはその幹部にサスーンが会社を買い取る提案をするが、リージス社との契約が終わった後だった。 したがって現在、世界にあるサロンもアカデミーも、またシャンプーやヘアアイロンなどの商品も、サスーンが創り出したものではあるが、彼は経営や販売には直接関わりがない状態だった。
サスーンは早くに会社を売却したことを後悔をしてはいるが、自分が育てたスタッフが現在世界中で活躍している事を誇らしいと言っている。

日本での映画の公開が2012年5月26日と決まり3月からサスーンにインタビューをしたいと申し込んでいたら、5月に入りマネージャーからできるという連絡が入った。約束の時間は2時間。ハリウッドのペニンシュラホテルのスイートルームを押さえ アップリンクのスタッフが弾丸トラベルを敢行し、 現地で複数のメディアのインタビューを行った。2時間を超えてサスーンは話を続けたかったようだが、マネージャーの判断で10分間だけ延長してホテルを後にした。

撮影されたインタビューの動画を見ると、フレンドリーに丁寧に質問に答えてくれていた。一言一言自分の言葉を伝えたいという意思が伝わってくる。インタビューでは日本で起きた震災についても語ってくれた。「私たちは、チェルノブイリの事故があった時に“もうこれ以上はだめだ”と言うべきだった。カリフォルニアにも2つ原子力発電所がある。明日、何が起きるか、私たちはわからないんだよ」。
取材テープを見ていると、時間が経つにつれ、しゃべりたい事はあるのだが、体力がおぼつかず、しんどそうなのがはっきりと分かる。
その一月後サスーンが亡くなったことをニュースで知る事になるとは……。

日本での公開2週間前のサスーンの死を「凄いタイミングだね」と言う人もいて、彼の死を利用して宣伝をするのはどうなのかとも一瞬迷いはしたが、僕は彼が最後のインタビューテープの中で、生きる最後の力を振り絞って、日本で映画が公開される事に対して協力してくれた事を知っている。この映画が公開される事で、観た人がなにかのインスピレーションを得る事になればと語ってくれたサスーンのために、一人でも多くの人にこの映画を観てもらい、彼が常に挑戦をし続けた人生を送った事を知って欲しいと思う。

インタビューの最後に、これからしたい事は何ですかという質問に「生きること」と笑いながら答え、白血病である事を告白し、でもこれは載せないでほしいなと言っていた。サスーンが亡くなった今、どうしようか迷った。その取材の場で撮影されたチャーミングなサスーンの写真は、病気がそこまで深刻だとはまったく感じさせないものだが、それほど自分の身体が悪いとわかっていてインタビューに答えてくれたのかと思うと、胸が詰まる。そのことを読んだ人にも伝わればという思いから、サスーンの言葉をそのまま残して掲載したのだった。

彼の望みをかなえ、日本での映画公開の反響を伝え、パンフレットを送り喜んで欲しかった。そうできなかったことは本当に残念でならない。
心からご冥福をお祈りします。

浅井隆
アップリンク社長

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