40's[コロンビア大学時代]

トーマス・J・ダウドはニューヨークに生まれ、マンハッタンで育った。オーケストラの主席演奏者だった父親と、オペラ歌手の母親は、トム・ダウドの音楽への思いを後押しした。数学と科学の基礎を身につけ、スタイヴァント高校を1942年6月に16歳で卒業した彼は、同級のほかの少年たちとは違って徴兵に行くにはまだ若かったため、そのまま勉強を続けることができた。

彼は夜学に進み、昼はコロンビア大学のバンドでプロとして演奏した。(後には指揮者となった)そこですぐに、彼は物理学の研究室に身を置き、科学研究開発庁(OSRD; Office of Scientific Research Development)のために働くようになった。彼はまだ10代だったが、ジョン・R・ダニングや、ビル・ヘブンス、やがては小説で賞を取ったジェイムス・レインウォーターの指導の下で研究するようになった。

18歳になると軍に召集され、軍曹の階級を与えられたが、相変わらずコロンビア大学の物理研究室で研究を続けた。彼はサイクロトロンを使って標的を変えながら密度測定をし、その統計を中性子線スペクトログラフィ管区の研究として記録した。このような原子核工学研究は、アメリカ合衆国陸軍工兵隊のマンハッタン工兵管区により行われたもので、そのコードネーム"Manhattan Project"(マンハッタン計画)の名は、1945年に広島に原爆が投下され、世界中に知られることとなった。

放射線量と測定装置に関する知識を買われ、彼は太平洋での二度の核実験の観測にも派遣された。しかしそのコロンビア大学での極秘任務のため、単位が取れなかった彼はつまらなくなり、クラシック音楽のレコーディング・スタジオで夏休みのバイトを始めた。そしてそれが彼の運命を変えた。そこで出会うミュージシャン達のレコーディングに圧倒され、トム・ダウドはレコーディング業界への参入を決意した。彼は1949年のことをこう回想する。「レコーディングが突発的に入ったりなかったりだった。そしてある日突然、ナショナル・レコードから、新しいアーティストのアイリーン・バートンのレコーディングをしたいという電話が入ったんだ。私たちは3時間のセッションで、4面分録音しただけで、彼女には二度と会うことはなかった。でも、彼らが出した最初のレコード、『イフ・アイ・ニュー・ユー・アー・カミン』は、爆発的にヒットしたんだ」

新世代のレコーディング・エンジニアの最先端に立つ者として、トム・ダウドはマイクをすべての楽器の前に立て、レコードに直接録音する技術の限界を打破した。彼の革新的なアプローチと、ヒットレコードを作るという評判は広まり、ディジー・ガレスピーや、ジョー・ターナー、レイブンスといった偉人たちのレコーディングを始めるようになった。マンハッタンの若者は、新しいキャリアに入ったのだった。

40's | 50's | 60's | 70's | 80's | 90's | 00's