マーク・モーマン監督がトム・ダウドと出会ったのは、1995年、マイアミのクライテリア・レコーディング・スタジオだった。マークは、アイランド・レコードと契約をしている友人のシンガーソング・ライター、Arlan Feilesのレコーディング・セッションの写真撮影、一方、ダウドは彼のアルバムのプロデューサーをしていた。マークは、彼のお気に入りレコードのライナー・ノーツから、トム・ダウドという名前だけはよく知っていたが、実際に会うのは初めてだった。

その撮影の2日後、Arlanのマネージャーは、トム・ダウドの自伝を綴った原稿をマークに渡した。彼は、その200ページの原稿を読んでも、音楽業界以外では無名のこの人物が、多くの歴史を形作った人物だとは、信じられなかった。近代音楽の多くの人たちと活動をしていた上に、トム・ダウドは、マンハッタン計画の原子破壊にも関わっていたのだ!ダウドの、人への思いやりと謙虚さに感銘を受け、また、映画制作者として、マークは、彼のユニークな話を語る責任を感じた。

映画の企画に関して、何度かミーティングを行った後、1996年2月、マークは忘れることのできないビデオテープ・インタビューを撮影した。トム・ダウドの激しい心とエネルギッシュな話術に、マークは大きく心を奪われ、近代音楽とレコーディング技術の歴史へ大きく影響を及ぼしたトム・ダウドの偉業を映画にすることを決心したのである。

1996年12月、撮影が開始された。まず、トム・ダウドが、Recording Arts&Sciencesのナショナル・アカデミーから、生涯にわたる功績に対する賞を授与されるのを見るために、マイアミにいたレコード・プロデューサーのフィル・ラモーンとアリフ・マーディンを含むトム・ダウドの関係者のインタビューを撮影した。

1997年1月、レイ・チャールズとの舞台裏のインタビューが撮影された。同年4月、クライテリア・レコーディング・スタジオで、テクノロジーの発達とそれがミュージックキャプチャに及ぼした影響に関する、トム・ダウドへのインタビューが撮影された。同時期に、マイアミを拠点とするインディーズ・ロックバンド、"The Good"と共にスタジオで働く彼を撮影した。

6月に、オールマン・ブラザーズ・バンドのオリジナルメンバーへのインタビューが撮影された。グレッグ・オールマン、ブッチ・トラックス、ディッキー・ベッツ、およびジェイモーが、トム・ダウドのバンドに対するプロデューサー、父親的存在、および友人としての役割に関して語った。

1997年8月、ロンドンでエリック・クラプトンのインタビューが行われた。9月後半、撮影スタッフが、マイアミからニューヨークまで移動した。トム・ダウドは、生まれ育った土地、通った学校、マンハッタン計画で働いていた場所、アトランティック・レコードなどを紹介した。また、この撮影期間中に、アトランティックの創設者であり社長であるアーメット・アーティガンと、レコード・プロデューサーのアル・シュミット、伝説的なギタリストのレス・ポールへのインタビューが行われた。

1997年11月、一連の非常に意欲的なシーンが撮影された。30数年前に、トム・ダウドが手がけたデレク&ドミノスによる、「いとしのレイラ」の16トラック・サブ・マスターから、デュアン・オールマンとエリック・クラプトンのギター・トラックだけを取り出す、というものだったのだが、その時、彼はサウンドボード上にミックスを立ち上げ、まるで、トラック毎に当時を再び体験しているシーンは、忘れがたいシーンのひとつになった。

撮影にかかる資金を使い切ってしまっていたため、次のシーンを撮影する頃には約1年が経過していた。 1998年8月、クライテリア・スタジオでトム・ダウドの長いインタビューが撮影された。彼はアメリカのロック、ソウル、およびジャズを代表する空前の素晴らしいアルバムを制作したことを、細部に渡るまで思い出した。

再び撮影が始まる頃には、2年以上が経過していた。 2000年12月、彼のアパートでのインタビューで、彼は個人的かつ、プロフェッショナルな人生を表現した。

2001年1月、トム・ダウドは、マークをレーナード・スキナードのコンサートの舞台裏に連れて行った。そこで、オリジナルのバンドのメンバー、ゲーリー・ロッシントン、レオン・ウィルカーソン、およびビリー・パウエルのインタビューが撮影され、2月には、25歳のギタリスト、ジョー・ボナマッサの作詞作曲をアシストするトム・ダウドが撮影された。

マークはその後、数カ月間かけて、本作の基礎となる部分の編集を自宅のPCを使って終えた。このカットのおかげで、最終的にすべての資金を確保でき、LAではその時代独特の録音機材、NYではアーカイバル・マテリアルを、そして、マイアミではスタジオの再現シーンとアトランティック・スタジオのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーのインタビューがサラソタにて収録された。すべてのポスト・プロダクションはマイアミで行われた。このプロジェクトは、まさにサウス・フロリダのプロの映画人たちの努力の結晶と呼ぶに相応しい。

この映画制作には7年が費やされたが、振り返ってみれば、もう3ヶ月早く終わるべきだったのかも知れない。トム・ダウドは2002年10月27日に亡くなった。マークは、トム・ダウドの77回目の誕生日の1週間前に病院に彼を訪問し、集まっている家族と一緒に時を過ごした。マークはラフ編集したビデオテープのコピーをトム・ダウドに渡した。その1週間後、トム・ダウドは電話で、それがどれほど満足すべきものであるかを話したという。