監督

ヴァディム・イェンドレイコ Vadim Jendreyko

1965年ドイツ生まれ。スイスで育ち、グラマー・スクールに入学後、バーゼル造形芸術大学 、デュッセルドルフ芸術大学で学ぶ。1986年、初めての映画を監督。2002年、スイスに暮らすアルバニア人のキックボクサーを追ったドキュメンタリー"Bashkim"でスイス映画賞最優秀ドキュメンタリー賞を受賞、その後ハークリ・ブンディとともにミラ・フィルムを設立する。現在プロデューサーや共同プロデューサーとして活躍している。プライベートでは2人の子供の父親で、バーゼルに在住。

ヴァディム・イェンドレイコ監督

監督インタビュー

──翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーとの出会いを教えてください。

当時、私はドストエフスキーについて調べていて、16世紀の哲学者カステリオンについて話をしてくれる専門家を探していました。その時紹介してもらったのが、ドイツのドストエフスキー文学の第一人者であるスヴェトラーナだったのです。最初は本当に偶然でした。

──最初に会った時、スヴェトラーナにどんな印象を受けましたか?

彼女と会った時、衝撃を受けました。ドストエフスキー文学に詳しいだけでなく、その他の文学、絵画、音楽、舞台、あらゆる芸術や歴史に造詣が深く、ウィットの利いたユーモアがあり、本質的で刺激的な話が尽きませんでした。

翻訳家だけあって、話す言葉のひとつひとつが光っているのです。とても的確に言葉を選ぶさまは、まるでひとつの芸術のようでした。そして、そのセンスと注意深さは、翻訳の仕事だけでなく、家庭の主婦としての才能としても開花していました。家のインテリアは、まるで古き良き時代のロシアの邸宅のようでしたし、日常生活のあちこちに彼女なりの様式美がありました。アイロンのかけ方、料理やお菓子作り、友人とお茶を飲む時間、そして孫やひ孫、隣人を集めて皆をもてなす様子、そのひとつひとつに心動かされてしまいました。仕事で成功している女性はたくさん知っていますが、仕事だけでなく、主婦の仕事も芸術的な作品として高めている女性を初めて見たと思いました。それまで、女性はキャリアウーマンか専業主婦タイプの二通りだと思っていましたが、彼女はどちらでもあることがパワフルだと思いました。

──なぜ、彼女を撮ろうと思われたのですか?

スヴェトラーナの人柄に、とても魅かれたのです。「どうしても彼女と彼女の人生を映像で残しておきたい」という強い想いがありました。それがこの作品を撮ろうと思った、一番の理由です。彼女の半生には、ヨーロッパ激動の歴史が色濃く反映されています。彼女はウクライナで生まれて、ロシア文化の背景を持ち、彼女の父親はスターリン政権に殺され、親友はナチに殺された。彼女はそうした2つの独裁政権を生き抜いた。私自身、両親はドイツ人ですがロシアの名字を持ち、4歳のときスイスに移り住んだために、子どもの頃から疎外感を感じ「自分は何者なのか」と悩んでいたので、個人的に彼女の境遇に共感しました。

私は、なぜこんなにも自分が彼女に惹きつけられるのか、その理由を知りたいと思いました。でも「彼女のドキュメンタリーを撮ろう」と思った私の決意は、とても無謀なものでした。なぜなら、彼女の体験したこと、家族の痕跡や記録は、もうほとんど残っていませんでしたし、その時点では彼女が亡命以来初めてウクライナの故郷を訪れることは、まだ決まっていませんでしたから、どんな画が撮れるのかはわかりませんでした。

──「私は言葉によって、救われた」という言葉に、彼女の万感の想いが込められていると感じました。彼女は翻訳という仕事やご自身の役割に対して、どのくらい意識的だったのでしょうか。

かなりはっきり意識していたと思います。若い頃からフランス語、ドイツ語、ロシア語を話せたことで、彼女はスターリン政権を生き延びられました。彼女の家族も含む、何百万人もの人間が殺戮された中で。この映画の冒頭でも言っているように、彼女は、どこかで罪悪感を感じながらも「私は人生に大きな借りがある」と感じ、何か返したいと思っていたのだと思います。彼女はこうも言っています。「言葉なくして伝わるものがあるなら、すばらしいわ。翻訳する必要がないもの」。もちろん、そういうこともあります。けれど実際の歴史や社会は、そうはいかない部分も大きい。言葉は、人を分断することもできるが、つなげることもできる。ですから、彼女は、生きる架け橋のような重要な存在だと思いました。

──監督は、彼女が言葉によって救われた部分は、どこだと思われましたか。

言葉を通じて、さまざまな文化に触れ、それを文字通り自分の血肉にしたことじゃないでしょうか。映画にも出てきますが、彼女がキッチンに立ち、料理中に、ドストエフスキーの小説を玉ねぎに例えるシーンがあります 。これは、私も気に入ってるシーンです。小説を翻訳しながら、物語に登場する料理も実際によく作っていたようです。そんな風に、言葉から入って、文化や習慣や考えを自身の生活に取り込むことで、これまで生きてきたのだと思います。それを意識しすぎることなく。彼女は、過酷な運命に翻弄されましたが、人間性を失わず、その感性を手放すことはなく、それが彼女の生きる尊厳になった。そうしたことは、生活の中で、目に見える形で現れていたので、私はこの作品を撮ることができたのだと思います。

──翻訳家の彼女が食事を作るシーンが印象的でした。監督は、スヴェトラーナの食事を召し上がりましたか?

はい。彼女は料理の天才で、どれも本当に美味しかったですね。料理はロシアとドイツのそれぞれの伝統料理をベースにしたものが多かったと思います。また、彼女はお茶の時間を大切にする"ティー・ドリンカー"で、スイーツ作りも素晴らしい腕前でした。りんごとルバーブで作るケーキが絶品で、レシピをわけていただいたほどです。友人に出すと、その美味しさにびっくりされる自慢の一品です。レシピは秘密ですが……(笑)。

──言葉を扱う翻訳家と、映像を扱うドキュメンタリー映画監督。お互いの仕事について、どんな話をし、どのような相互理解があったのでしょうか。

彼女に会うまでは、翻訳という仕事について、ほとんど何も知りませんでした。むしろ「不思議な職業だな」くらいに思っていました。けれど、彼女を知るごとに、翻訳とドキュメンタリーの対象へのアプローチの仕方や試みている手法は、かなり類似性が高いことに気づきました。実際に、ドキュメンタリーを制作するプロセスは、翻訳と同じアプローチを取ります。まず、原語の意味を、自分の中に取り込み、その大意を咀嚼した後で、解釈をもとにまったく別の言語の新しい創造物として、再構築させるのです。実際のところ、事実をそのまま撮影しただけでは、「ドキュメンタリー映画」にはなりえません。可視化できる対象物の深層にあるものを掴み、再構築する作業が必ず必要なのです。そのプロセスは翻訳に近いものだと思います。そして、いずれも、主観なき客観性は存在しません。

対象物に何かを感じる一方で、「この分野については知らない部分がある」もしくは「まったくわからないけど気になる」と思う事柄にぶち当たると、モチベーションが沸いてくるのです。「よし、映画を撮ろう」と思わせるのです。しかしそれは同時に、リスクの高いことです。そうした領域は、底が深くて、果敢に分け入っても、道に迷う可能性もありますし、結局私は何も見つけることができなかったということだって起こりえます。観客の皆さんは、その私の旅の証人になのだと思います。生前、彼女はよくこう言っていました。「翻訳はどんどん古くなる。これは永遠に解決しない問題。翻訳はいつも新しい翻訳を必要としている」と。テクストの形式やプロセスは、時代や環境によって変わり続ける必要があるのだと思っています。

インタビュー・文:鈴木沓子