“プロトニ”の名で知られるトニ・ヤルヴィネンは、フィンランド西海岸の街ラウマで数十年にわたり文化シーンを牽引してきた人物。『クロノス・カイロス』の構想も、この街で生まれた。
DJプロトニとして幾世代ものクラブの客を沸かせてきた一方、伝説的なレストランやイベント、フェスティバルの立ち上げと運営に携わってきた起業家でもあり、ラウマの夜を象徴する存在である。
俳優としては天性の才能を持つ。長年の友人である監督ヘッラ・ウルッポが、その「歩き方」だけを理由に彼を主演に抜擢した。唯一無二の佇まいとスタイルが、本作に生々しい説得力と磁力を与えている。広告のナレーションも手がけ、故郷ラウマを舞台にした長編『A Light That Never Goes Out』(2025/カンヌ国際映画祭出品、フィンランドのユッシ賞複数受賞)にもカメオ出演している。
出演(“女”役)|ミラ・ルオティ(MIRA LUOTI)
“プロトニ”の名で知られるトニ・ヤルヴィネンは、フィンランド西海岸の街ラウマで数十年にわたり文化シーンを牽引してきた人物。『クロノス・カイロス』の構想も、この街で生まれた。
DJプロトニとして幾世代ものクラブの客を沸かせてきた一方、伝説的なレストランやイベント、フェスティバルの立ち上げと運営に携わってきた起業家でもあり、ラウマの夜を象徴する存在である。
俳優としては天性の才能を持つ。長年の友人である監督ヘッラ・ウルッポが、その「歩き方」だけを理由に彼を主演に抜擢した。唯一無二の佇まいとスタイルが、本作に生々しい説得力と磁力を与えている。広告のナレーションも手がけ、故郷ラウマを舞台にした長編『A Light That Never Goes Out』(2025/カンヌ国際映画祭出品、フィンランドのユッシ賞複数受賞)にもカメオ出演している。
出演(魚介類アレルギーの殺し屋役)|カリ・レイニ(KARI REINI)
ミュージシャンであり、音楽業界の多才なプロフェッショナル。本作が長編映画出演デビューとなる。監督ウルッポとは2000年代初頭のヘルシンキの夜の街で出会った。その後フィンランドの音楽シーンから姿を消し、HIM、Children of Bodom らのツアーに帯同して10年以上を世界で過ごしたのち、アンダルシアの山村アローラに移り住む。創作のための滞在で偶然ウルッポが彼の家を訪ねたことから、二人の交流は兄弟のような関係へと発展した。当初は撮影場所の手配など裏方の役割にとどまるはずが、制作が進むうちに気づけばカメラの前に立っていたという。
コメント
「今シーズン最も独創的で、最も記憶に残る作品の一本となるだろう。
アキ・カウリスマキが“シュルレアリズムの傑作”と評した映画体験そのものだ。」
恋人に捨てられた男は一人の謎めいた男に出会い、2人の奇妙な関係が荒涼とした山岳地帯で展開していく。監督のヘッラ・ウルッポはミュージシャンで映像作家としても活動しているそうだが、映画全編に流れるアンビエントな音楽が映像と一体化。ラヴストーリー、SF、西部劇……様々な要素が混ざり合って、二日酔いのルイス・ブニュエルみたいなグロテスクで美しい妄想の世界を生み出していく。タコにストローを刺してスミを吸うシーンがあるけれど、飲みすぎるとこんな悪夢を見るのかも。
最初に連想したのは『第七の封印』。イングマール・ベルイマンが1957年に撮った伝説の映画で、死神との死を賭けたチェスに名優マックス・フォン・シドーが挑む、あのシーン。モノクロ撮影だし、北欧だし、廃墟みたいな舞台だし。シドーの面影と、主演のトニ〝プロトニ〟ヤルヴィネンは似てなくもない。
これが初監督作品だというヘッラ・ウルッポは、フィンランドのミュージシャン。共同脚本のミカ・ラッティは、アキ・カウリスマキと共に映画館「キノ・ライカ」を運営する。彼もまた音楽にこだわりがあるだろう。だからなのか、この映画では、すべての音が存在感を持つ。自然音、雑音、電子音、無音ですら音だ。意味を削ぎ落とした音に慣れていくと、意味を伝えようとする言葉は物語の邪魔になる。ミニマルの極致みたいな画面から、不意に蛸やユーモアがこぼれ落ちるとき、自分の中でメロディが聴こえた。そのとき、この不思議な不思議な映画に感染してしまったとわかった。
自分のことを他人事のように感じる。この映画で示されたそんな自分と世界との距離感と『ここ』と「よそ」を仕切る薄くて柔いがしかし決定的で残酷な皮膜の肌触りは、耳鳴り持ちのわたしには限りなくリアルなものだった。近くて遠い世界との関係。生と死が常に反転しながらわたしを動かす。すべてそこから始まる。
フィンランド語のÄÄNI(アーニ)には「音・声」という意味がある。「声」には意見や考えといった概念も含む。声のない映像が男の存在を危うくする。自然や機械音に囲まれて生きる男の姿は、自分という概念を求め彷徨うかのようだ。やがて音にリズムが生まれメロディが宿り、罵りの言葉が吐き出され、いよいよ歌声が流れる。男は存在した。それにしても何だろう、自分の中に生じるイメージが、ときどき超現実のシーンとしてスクリーンに現れ、そのたび私は私のことが少し恥ずかしくなった。
この映画を手がけたヘッラ・ウルッポについて読んでいて思い出したことがある。ある日、旅の途中でハルヤヴァルタという町に住む知人を訪ねた。トイレの扉と間違えて開けた風呂場に白鳥がいた。傷ついた白鳥をかくまっているという。日常がそのままこの映画と地続きの世界。そんな町でヘッラ・ウルッポは生まれたのだ。
ギリシア神話における天空神ウラノス(やたらと奥行きのある平らかに広がる画面)は、時間の神である長子クロノスによって男根(ポール)を切り取られた。垂直性はほとんど冗談のように無力で、自転車のタイヤは修理中であるか空転を続けることになる。
カイロスはクロノスの弟の末子ともされ、主観的な時間を意味する。映像内での出来事(現れるピンポン玉たち)はまだ整然とした時間をなしてはおらず、それでもやがて観続けるうち、次に何が起こるのかが、なぜかわかるようになってくる。これは、時間の発生を見ていることに等しい。