ふたりの出会いから『LISTEN リッスン』へ この作品が生まれるまでの制作背景
初めから「聾者の音楽」をテーマにした映画を撮るつもりはなかった(牧原)
 私は幼少期から様々な人たちの手話を見てきた。彼らが紡ぎ出す手や表情の動き、単語と単語の繋がり、その流れや間、テンポ、呼吸といった要素が複合的に組み合わさることで、手話そのものに“声質”ならぬ“手質”が宿ることを、私は当たり前のように感じとっていた。また、人間の様々な身体表現を見るのも好きだった。特に、ダンスを踊る人や歌を歌っている人の表情や身体の動きに惹きつけられた。しかしながら、彼らが聞いたり発したりしている音そのものには直接触れることはできない。そのことが私に消化不良を起こさせていた。聴者は音によって感情が揺さぶられることもあるという。私は振動から音の存在を知ることができるものの、感情を揺さぶられることはなかった(唯一「演劇実験室◎万有引力※1」の公演では振動に感情が沸き立つのを感じた)。
 そんな私であったが、大学生の時に参加した佐沢静枝氏による手話詩ワークショップがきっかけで、手話そのものに音楽のような“何か”が存在することを知る。その時の佐沢氏は「ふるさと」を手話詩で披露していた。彼女は、ただ日本語に手話を当てはめるといったやり方ではなく、日本語歌詞を手話の文法に「翻訳」し、手話そのものが心地良く見えるような表現をしていた。手話詩そのものを初めて視た私は、日本語歌詞の「めぐりて」にあたる一節を表現した手話に激しく感情が揺さぶられた。日本語では上手く説明できないのだが、その情景を表した佐沢氏の表現は今でも鮮明に脳裏に浮かび上がってくる。その表現は確かに手話(言語)なのだが、私には言語ではない“何か”が、リズムではない“メロディーのようなもの”が視えた。その経験は私にとっての覚醒体験だった。
 それから時は流れ、私は映画監督を目指すようになる。短編を撮り終え、次のテーマを何にするか考えていた時、突然私の頭に「聾者の音楽」というテーマが降りてきた。とは言っても、始めから本作のようなアプローチをしていたわけではない。私はまず、聾者のために聴覚的音楽を視覚的音楽へ置き換えて映像化する「翻訳」を試みることにした。企画を立て、聴覚的音楽を学ぶにつれて音楽の理論を知り、 音と音の組み合わせによって協和音・不協和音が生まれているならば、手話にもあるはずだとも思い始めた。
 しかし、そこには壁が待っていた。この企画は聴覚的音楽をベースにするため、まずはその曲に理解のある聴者たちの協力が必要不可欠だった。ところが、聴者は手話詩によって生まれている「音楽のようなもの」を想像することができず、彼らに私が目指していることを具体的に示すことができなかったのである。どうにかして説明するべく、私は世界中の映像をあたってみたが、例えば『音のない世界で』(ニコラ・フィリベール/1992年)の冒頭場面や、『愛は静けさの中に』(ランダ・ヘインズ/1986年)で主人公が海を表現しているシーンなど、一部にはその片鱗が見られるものの、なかなかぴたりとしたものを見つけることができなかった。
 そして聾者たちもまた、手話による視覚的音楽の存在を誰もが「分かる」と答えはしたが、「音楽」としての手話はこれまで追求されてきておらず、それは未だ「音楽のようなもの」に留まっていた。ならば「聾者の音楽」を私が自ら創ればいいと思うに至ったが、いざ振り付けるとなると思うようにいかず、それをどのように構築していけばいいのか方法が分からずにいたーー。

※1演劇実験室◎万有引力
寺山修司の死後、天井桟敷の音楽・共同演出を担当していたJ・A・シーザーと天井棧敷の劇団員で結成された日本の劇団。
※2佐沢静枝氏
聾者。本作にも出演。主に舞台活動やワークショップを通して手話に関する芸術活動を行っている。
「聾者独特の踊りとは何か」と暗中模索してきた(雫境)
 音楽に興味を持ちはじめたのはいつからだったろうか。
 小学生の頃、プラスチックの白い波板の庇(ひさし)の下でひとりで遊んでいるとき、あたりが突然暗くなり、風が強く吹いてきて、私は呼応するように空を見上げてみた。台風を予告するかのように階調に富んだ灰色の雲が空一面を覆いながら、程よい速さで流れていく風景。そのときは「音楽」だとは思わなかったけれど、今となればそれは私にとっての「音楽」だった。根源的なものとして未だにこの想いが続いている。
 中学時代はたまたまテレビで観たアメリカのミュージックビデオに釘づけになり、真夜中に親に隠れて観ていた。バレないようにテレビの音量ヴォリュームを消して。映像のなかで時間が移動している軸に様々な表現がのっている。ボーカルの顔の表情の変化、奏者の手捌き、カメラワークなどから共鳴、共振を感じていた。
 大学生の時、なりゆきで日本ろう者劇団※3の役者を経て、誘われるがままに舞踏の世界に踏み込んだ。初めはずっと群舞の一人として舞台に立ち、他の人の動きを盗み見するように合わせて踊っていた。舞台の要素のひとつであるはずの音楽のことは深く考えていなかった。重低音が響いている、という感覚でしかなかった。観客や他の舞踏家から、どうして群舞でピタリと合わせて踊ることができるのかと不思議がられたりもしたのだった。群舞の一人に合わせている時、たまたまその人が間違えたタイミングや形までそのまま合わせてしまうということもあった。
 今では独立し、自分のグループやソロで舞台を作る時は、音楽家を舞台に立たさせて生演奏で踊ることが多い。最初に振付を決めてから音楽を決めるやり方が主だ。即興で踊るときは演奏している人の情念、感情などを動きや皮膚から感じ取りながら踊っていた。また、そこにいる空間、観客の視線、息遣いなども。そうやって何年も続けてきて、「舞踏の他に新たに表現できるものは何だろうか? 聾者の踊りとは何だろうか? 手話に密着した生活をしている自分には、そこから踊りができるのではないか」と思い始めた。また、手話詩、サインマイム(手話とパントマイムの特徴を合わせて作り出された表現方法)などの表現の存在は知っていたが、自分の中では何かが違うと感じていた。説明しやすく分かりやすいものではなく、抽象画の絵が動いたり変化していくような感覚を私は求めていた。
 「聾者独特の踊りとは何か」と暗中模索しながら、手話を仄めかすような小手先の踊りを取り入れてみたり、その単語を解体し意味変容させ身体表現してみたり、10年は続けたように思う。非常勤講師として務めている大学では、手話による教養講義で舞踏を受講してきた人に、幾つかの関連性のない(手話)単語を並べて、意味を考えないで手で踊らせてみたり、単語の動作を通常では使わない様々な速さで調節させ、その動きを身体全体で使って表現させてみたりした。聾者が聴覚的音楽に合わせるのではなく、自分の中から作って踊れる、身体全体で舞踊表現しなくても上半身のみで、手が空間を奏でることのできる「新しいジャンル」として、聾の踊りを創っていけるのだと促してみたりもした。聾者の誰かがそういう新しい地平を切り開いてくれることを期待して――。

※3日本ろう者劇団
代表は米内山明宏。手話狂言、創作劇、ムーブメントシアター、サインマイム等、視覚的芸術と手話の魅力に重点をおく演劇作りを行っている。
二人の共振から「聾者の音楽」を探求した映画へ
 聴覚的音楽から視覚的音楽への翻訳と映像化を目指していた牧原は、舞踏家として活躍する雫境に協力を依頼し、彼の舞踏講義を受講した。すると、牧原の頭の中にじわりと何かが浸透しはじめた。そして彼なら「聾者の音楽」をさらに昇華させていけるのではないかという直感がはたらいた。聾者が舞台上で「音楽」を表現できると思い続けていた雫境もまた、牧原から映像化という手段を得ることで、新たな枝が芽生えていくように着想を得た。そうして二人の共振から「聾者の音楽」をテーゼにした映画の探求が始まった。

   聾演者に対し、いかにして手話という言語を解体し、意味を変容して身体の内側から情念を出させるか。また、言語と非言語という二つの領域のあいだを往き来するようなところに、その人の持っている感情、感覚などをいかにして汲み出すか。私たちは何度も試行錯誤した。
 一方で、出演者たちは初めは戸惑っていた。ダンスは普遍的な音楽、リズム、メロディーといったものに合わせてやるもの……という先入観があったからだ。「“聴こえ”もしないのに、なぜ音楽?」という出演者からの無言の問いかけが牧原と雫境の前に立ちはだかっていた。
 それでも「聾者の音楽」の存在の在り処に、未だ明確な形でなくとも確信を持っていた二人は、諦めずに様々な方法でレクチャーしていった。例えば、手話の中には手の形を静止しただけでは意味を持たず、ある程度決まった方向に移動してはじめて意味を持つものがある。 その動線を遊ぶようにずらしたり、間を作ったりすることで音楽的に見える瞬間がある。それは「動き」という一つの点であるが、さらに心的なるもの、感情なるものなど、身体の内側から湧き出てくるものをその「動き」にのせる。くわえて、目や顎の動き、そして顏の表情など多種多様な要素を絡み合わせることで「聾者の音楽」を築いてゆく。
 ともすると、聴者、すなわち手話を知らない人から見れば、これはただのパフォーマンスだとか、日本語に手話を対応させたいわゆる”手話歌”の一種として受けとられるかもしれない。手話が日本語に合わせた簡易的コミュニケーションツールだと認識している聴者はいまだに多く、こうした誤解は避けがたいのが現状だ。しかし手話とは、米の言語学者ノーム・チョムスキーが明言しているように、音声言語と同等の複雑さ・豊かさを有する“視覚言語”である。そして聾者とは、その独自の構造を有する手話言語を母語とした言語的少数者に他ならない。つまり本来、日本語と手話という異なる文法の言語を同時に使用することは不可能であり、ましてや従来の“手話歌”のように音声と併用して使用される手話表現は視覚言語としては不完全だ。この点において、“手話歌”を「聾者の音楽」というには矛盾と違和感がある。
 牧原と雫境は日本手話を使用している聾者の表現から手話特有の「間」を感じとり、それは特に異なる言語の使用者ーーすなわち日本語話者に囲まれることで、音声言語のそれとは全く別種のリズムであることを経験として知っている。ならば、日本の歌が日本語のリズムから生まれるのと同様に、手話もまたその独特の「間」から音楽が生まれるはずだ。そして、それこそがほかでもない「聾者の音楽」と呼べるものであるという確信が二人にはあった。
 また、聾者と聴者の目のズレをどう埋めるかも二人は随分と話し合った。聴者の観客に対しては、「聾者の音楽」の意味を追体験させることに比重をを置くべく、作中で説明的なアプローチはせず、舞台経験のない一般人も出演させようということに一致した。「音楽」は誰の中にもあるーーそれを体現するために、人前での表現に慣れている人ばかり出ている「プロ」っぽい映像にはしたくなかったし、それはこの作品にとって意味を持たないと判断した。誰でも楽しめるはずである「聾者の音楽」の敷居を高くしたくなかった。また、「今の日本の聾者」を示すためにも一般人の出演は必要不可欠だったし、なくてはならないものだった。彼らの身体性と感情、そして映画的文法といった、聾者と聴者の間に共通するものを交えていくことによって、二つの世界の狭間と根底に共通しているものを表現していった。
 それから、タイトルについても最終的に『LISTEN リッスン』に決まるまで、思い思いに悩んでいくつも候補をあげて議論した。「聾者の音楽」に代わる言葉が見つからず、いっそ言語ではなくロゴマークのみにしちゃおうかという話まであったほどだ。それほど本作の新たな試みを、聾者と聴者、手話と日本語、音楽と言語のあいだで定義づけることは容易ではなかった。
 聾者と手話のもつ「音楽」に眼差しを向け探求する牧原と、踊る者として身体表現を追求し、手話の言語的機能と非言語的機能の双方に造詣の深い雫境。二人の出会いによって「聾者の音楽」を新たな領域へ昇華させた映画が『LISTEN リッスン』だ。聾者の間では手話詩といったものは古くから認識されているが、「聾者の音楽」に関してはまだ、その存在をうっすらと感じている程度に過ぎない。だからこそこの映画が、聾者のアイデンティティーという地盤から新たな「音楽」の扉を開くことを、二人は願ってやまない。この作品はあくまでもはじまりでしかない。完成されたものでもない。「音楽」が確かにそこにあることを、まずはあなたに感じて欲しい。