イントロダクション
緊急事態宣言下、
東京を漂う青年と、三人の女たち。
映画『雷電』は、2つのパートで構成される。パート1は、主人公・レオが2021年の東京を生きた自伝的な映画。それから5年後のパート2では、レオからの手紙が届いたアンナ、元彼女、女友達の3人の現在の姿が映し出される。
2021年。新型コロナウイルスの感染拡大によって、人々の生活や行動が大きく制限されていた。本来なら2020年に開催されるはずだった東京オリンピックも延期され、社会全体が、いつ訪れるのかわからない「その先」を待ち続けていた。予定されていたものが延期され、当たり前だった日常が失われ、時間だけが過ぎていく。先の見えない不安や、社会から切り離されたような孤独。世界が大きく変わっていく一方で、自分自身の生活だけはどこにも進んでいかない。そんな閉塞感が、2021年の東京には漂っていた。
2021年にパート1の撮影を終えた芝暢佑監督は、その映像があまりに個人的な物語に思えたことから、当初は本作を世に出すつもりはなかった。しかし5年後の2026年、改めて本作を見返すと、そこに一人の人間の生活を通して浮かび上がる、当時の社会や人間の姿を見出した。そこで、パート2の追加撮影を決行し、2021年と2026年、異なる時間と視点が交差する構成・編集を通して、過去から形を変えながらもなお続く現代の閉塞感を映し出した。
本作の主演を務めるのは、スーパー戦隊シリーズ『王様戦隊キングオージャー』で主人公・ギラ/クワガタオージャー役を演じた酒井大成。本作が、自身初となる長編映画主演作となる。
監督・脚本・編集を務める芝暢佑は、ヌーヴェルヴァーグをはじめとする映画表現への関心を下敷きに、独自の編集リズムによって、現代を生きる青年の、滑稽とも思える焦燥感や孤独を描き出した。
『雷電』は、映画そのものが、「自分はここにいる」と稲妻のように力強く叫ぶ、ひとりの青年の生を描いている。その、2021年に生まれた ”個人的な映画” は、5年の時間を経て、ひとりの人間の記憶を超え、現在を生きる私たち自身の姿を映す映画となった。
ストーリー
2021年、緊急事態宣言下の東京。社会に翻弄される男たちと、その男たちに翻弄される青年・レオ(酒井大成)。社会では大きな変化が起きている一方、レオの日常を支配しているのは、恋愛や嫉妬、自己愛、友人との他愛ない会話だった。
徐々に社会運動へとのめり込んでいく友人、手段を選ばない活動家、変化を望まない大学教授。政治のことはよくわからない。それでも無関心だと思われたくない――。その狭間で、レオは自分の立ち位置を決められずにいる。内なる不安や葛藤を抱えるレオだが、変わらず愛してくれる元恋人(八田麻美)、遮らずに話を聞いてくれる女友達(愛田天麻)、そして一目惚れした売れない女優・アンナ(兼行凛)の前では饒舌になる。中身の伴わない言葉で自分を飾りながら、レオはかろうじて自分を保っている。
やがて5年の歳月が流れる。レオの記憶をたどる先に見えてくるのは、過ぎ去った2021年ではない。形を変えながらも、今なお続いている私たちの社会だった。
映画『雷電』は、一人の青年の滑稽さと危うさを通して、2021年から現在へと地続きに続く時代の空気を捉えようとする。
コメント
とてつもない主観映画が誕生した。芝監督が紡ぐ言葉と言葉の連鎖が時に心地よく、時に絶望を与える。そして、どこか希望も与えるものだからなんとも不思議な体験だ。
若者の感性を通じて今の生きにくい社会へのカウンターパンチ作品ともいえる映画だ。
こんな映画が世の中に生まれてくるのだからインディーズ映画はこれからも
ずっとあり続ける必要があると強く思わされた。
このように自分に正直な映画を自分も死ぬまで作ってみたい
主人公レオは、仕事も住む家も失い、スマホすら持っていない。
だからTikTokもNetflixもSNSも見ることができない。しかし意外にも彼の日常は忙しい。
毎日会う人がいて、会えば煙草を一本もらい、喫茶店では飲み物を奢ってもらう。
好きな女の子を待ち伏せしてはデートに誘い、一緒にパスタを食べる。
未来の予定を決めないまま、レオは浮遊するように日々を生きている。
そしてレオは、とにかくよく喋る。
三人の女性を相手に、一方的に語り、質問を投げかける。しかし彼が話せば話すほど、自分の言葉を持っているようで、実は何も持っていないことが露わになっていく。
言葉を尽くして誰かに近づこうとすればするほど、人はレオから離れていく。
それでも最後までレオはスタンスを変えない。ある意味潔く気持ちのいい主人公とも言える。
そして作品を見終えて、ふと思う。
答えの出ない、無駄とも思えることについて延々と考え、語り続けること。人生の中にある、停滞した一定の期間。
それは案外、豊かな時間なのかもしれない。
どれだけ御託を並べ
賢そうな言葉をスラスラ発せたとて
好きな女の前ではただただ
なんでもない男であり
目の前のたった1人に振り回されている。
しかし考えてみたら
過去の偉大な作家もアーティストも
恋の前では皆しょうもなかったと思い出す。
そして総じて皆、満たせない自己愛を
他者と関わることで得ようとしていた。
けれど、賢くありたい自分を捨て
自己フィールドを打ち壊す勇気を持たなければ
本当に求めている他者と繋がりは
得られないのかもしれない。
ジャン=ピエール・レオーが変態してコロナ禍の日本に突如出現する。
果たしてそんな思い付きがあったのかどうか。
主人公の引き攣った独白が呼ぶ混乱がわれわれの口を封じるこの映画は、だからこそあり得ない対話をうみだす契機に満ちている。
不思議な映画体験でした。
膨大な言葉でもって、めちゃくちゃなことを言う主人公。あの若者が抱えている焦燥や孤独は決して他人事のように思えない。
5年前の作品ですが、鮮度が高く感じるのは、きっと今も変わらないあの空気が私たちを取り巻いているのだと思いました。
雄弁で、高邁な映画だ。
それでいて衒学の匂いがしないのは、レオの饒舌が知の誇示ではなく、生き延びるための呼吸だからだろう。
机上の空論を重ねながら、それでも「ここにいる」と叫び続けるレオも、やがて大人になる。
五年の歳月を内側に抱えたこの映画は、すでにその予感を孕んでいる。それが喪失なのか、成熟なのかはまだわからない。
だからこそ彼がこの先どう動くのか、どう生きるのかの行く末を、僕は見てみたい。