出演

ジェームス・ブラウン

James Brown

James Brown

「SOUL POWER」「PAYBACK」「COLD SWEAT」「I CAN'T STAND MYSELF (WHEN YOU TOUCH ME)」「SAY IT LOUD (I'M BLACK AND I'M PROUD)」

「ソウルのゴッドファーザー」「ショービジネス界で最もよく働く男」と称され、20世紀のポピュラー・ミュージックに最も影響を与えた人物。そのシャウトを用いたヴォーカルスタイルと熱狂的な踊りとで名を馳せた。この50年間に音楽的な影響を与えた人物の1人として、エルヴィス・プレスリーや、ボブ・ディランらと共にその名を並べている。ブラウンには先見の明があり、音楽を新しい場所に押し上げた改革者だった。ファンクに起源を持ち、アフロビートやアフリカのポピュラー・ミュージックのリズムに影響を与えもした。シンガー・ソングライターであり、バンドリーダーであり、レコードプロデーュサーでもあり、博愛主義者で市民権活動家でもあった。「ソウル・パワー」は1971年に発表されたシングル、1972年のアルバム『SOUL CLASSICS』にも収録された。「ペイバック」は、1974年に発表された同名タイトルのアルバムに収録。ポピュラー・ミュージック界で最初のファンク・ソングと称される「コールド・スウェット」(1967年)、エンドロールで流れる「セイ・イット・ラウド:アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」(1968年)は市民権運動の時代に聖歌となった。ヒット歌は900曲以上に及ぶ。2006年12月25日、ジョージア州アトランタでうっ血性心不全で亡くなった。

ザ・スピナーズ

The Spinners

The Spinners

「ONE OF A KIND (LOVE AFFAIR)」

1954年ミシガン州デトロイトで結成。1963年モータウンと契約して活動「イッツ・ア・シェイム」のあと、1972年にアトランティック・レコードと契約し、ヘンリー・ファンブロー、ビリー・ヘンダーソン、パーヴィス・ジャクソン、ボビー・スミス、フィリップ・ウェインという編成となる。敏腕プロデューサー、トム・ベルと制作を続け、流麗なオーケストレーションと美しいコーラスワークを駆使したサウンドで黄金期を迎える。「ワン・オブ・ア・カインド・ラヴ・アフェアー」は、1973年に発売されたセルフタイトルとなるアルバムからのサード・シングル。


ビル・ウィザース

Bill Withers

Bill Withers

「HOPE SHE'LL BE HAPPIER」

アメリカ、ウェスト・ヴァージニア州出身、『ロックの殿堂』入りしたシンガー・ソングライター。今作で披露される「ホープ・シール・ビー・ハピアー」を収録したファースト・アルバム『Just As I Am』で1970年デビュー。1972年に『Just As I Am』収録の『消えゆく太陽』で、第14回グラミー賞ベスト・リズム&ブルース部門を獲得。同年リリースしたセカンド・アルバム『Still Bill』に収録の『リーン・オン・ミー』は年間No.1ヒットとなる。他に 『ユーズ・ミー』、『ラブリー・デイ』 、グローヴァー・ワシントン・ジュニアの 『Just the Two of Us』(邦題:クリスタルの恋人達)など多くのヒット曲がある。2009年、『STILL BILL THE MOVIE』と題されたウィザースに関するドキュメンタリーが公開された。


シスター・スレッジ

Sister Sledge

Sister Sledge

「ON AND ON」

デビー、ジョニー、キャシー、キムから成るフィラデルフィア出身のボーカル・グループ。1972年結成後、1979年のディスコ・ヒット「We Are Family」「He's the Greatest Dancer」で知られる。これらの楽曲は現在に至るまで幾度となく再リリース、そしてアップ・トゥ・デートなリミックスを施されダンス・クラシックとして常に高い人気を誇っている。ザイール'74出演時は、アルバム・デビュー前で、グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップスの「オン・アンド・オン」をカバー。現在も勢力的にツアーを行っている。


ザ・クルセイダーズ

The Crusaders

The Crusaders

「PUT IT WHERE YOU WANT IT」

ウィルトン・フェルダー(テナー・サックス)、ウェイン・ヘンダーソン(トロンボーン)、スティックス・フーパー(ドラムス)、ジョー・サンプル(キーボード)からなるグループ。1961年から1970年まではザ・ジャズ・クルセイダーズとして活動。ジャズ・ファンクからフュージョンへとスタイルを変えながら、ジャズ・ファンのみならず幅広いリスナーから支持を集めた。「プット・イット・ホエア・ユー・ウォント・イット」は1972年の『1』収録の彼らのヒット曲。初期から準メンバーとしてラリー・カールトン(ギター)が参加、このザイール'74のライブではさらにケント・ブリンキィ(ベース)が加わっている。


ダニー“ビッグ・ブラック”レイ

Danny 'Big Black' Rey

Danny Rey

「BONJOUR L'AFRIQUE」

ジョージア州サバナ出身のコンガ奏者。1960年代にはランディ・ウェストン、フレディ・ハバード、レイ・ブライアント、ジョニー・バラクーダー、ジュニア・クック、エリック・ドルフィー、ディジー・ガレスピーといったジャズの巨人達としばしば共演する。後に、“キング・オブ・コンガ”と称される。『Message to our Ancestors』(1967年)、『Elements of Now』(1968年)、『Lion Walk』(1968年)、『Big Black and the Blues』(1972年)をUNI/MCAからリリース。以後、20年以上に渡って活躍。ディジー・ガレスピーの映画 『Havana Bop』に出演したり、モントレー、ニュー・ポート、といったインターナショナル・ミュージック・フェスティバルに参加。


タブー・レイ・ロシェロー

Tabu Ley Rochereau

Tabu Ley Rochereau

「BAKOBOSANA」

1940年コンゴ民主共和国生まれ。アフリサ・インターナショナル・オーケストラのリーダーで、アフリカでも最も影響力の強いボーカリストでありソングライター。〈ルンバ・コンゴレーズ〉の代表格。コンゴ・ポピュラー音楽の父として知られるグラン・カレが率いるアフリカン・ジャズに参加。1970年にアフリサ・インターナショナル・オーケストラを結成。1971年にモブツ大統領による伝統回帰政策によりタブ・レイと改名、精力的なライブ活動を続け、OK Jazzとともにアフリカの2大バンドとなった。


ヒュー・マセケラ

Hugh Masekela

Hugh Masekela

南アフリカ出身、音楽祭プロモーター、トランペット、フリューゲルホーン、コルネット奏者、作曲家、シンガー。1958年、ジャズ・ミュージカル『キング・コング』に出演。同作は、ミリアム・マケバ、ネイサン・ムドゥレドゥレが出演し、南アフリカで初めて成功したミュージカルとなった。その後、1960年にアパルトヘイトによる暴力の増大により南アフリカを脱出するものの、アフリカのルーツを求め、ギニア、リビエラ、ガーナ、そして1981年にはボツワナに移り住み、南アフリカの音楽スタイル、ンバクァンガを再吸収。南アフリカ・ジャズの最大の貢献者となっている。


ジョージ・プリンプトン

George Plimpton

George Plimpton

アメリカ、ニューヨーク出身のジャーナリスト、ライター、エディター、俳優。『パリス・レビュー』の設立者の一人。ニューヨークの上流階級出身、文芸ジャーナリスト、そして、“参加型”のジャーナリストとして知られている。彼は実際に“プロ”として、スポーツ選手、スタンダップ・コメディアン、映画の悪役、サーカスのパフォーマーなどを体験し、それをウィットに富んだ優雅な散文体で綴り続けた。1998年には、オーラル・ヒストリーと伝統的な伝記を組み合わせて型破りなオーラル・バイオグラフィ『トルーマン・カポーティ』も著した。2002年には、F.スコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダ、そしてヘミングウェイの間で取り交わされた手紙を元にドラマ化している。俳優として『アラビアのロレンス』 (1961年)『リオ・ロボ』 (1970年)、『レッズ』、『グッド・ウィル・ハンティング』等にも出演。2003年、マンハッタンの自宅にて死去。享年76歳。


ストークリー・カーマイケル a.k.a. クワメ・ツレ

Stokely Standiford Churchill Carmichael a.k.a. Kwame Ture

Stokely Standiford Churchill Carmichael a.k.a. Kwame Ture

トリニダードの首都、ポート・オブ・スペイン出身。1969年代にアメリカの公民権運動で活躍した黒人活動家。学生非暴力調整委員会(SNCC)初代リーダーとして有名。後にブラック・パンサー名誉会長となる。当初は人種差別撤廃論者だったが、後に黒人国家主義者となり汎アフリカ主義者運動に加わった。 1966年6月5日、ジェームズ・メレディスが人種差別撤廃を訴えるために一人でメンフィスからジャクソンに向けて『恐怖への行進』をスタートさせたが、その翌日狙撃されてしまう。それを聞いたカーマイケル、M. L. キング、フロイド・マキシックなどの公民権運動家は、彼の意思を引き継ぎ、メレディスの名前の下に行進を続けた。6月16日に有名な『ブラック・パワー』スピーチを行い、「この国の黒人よ、団結せよ、伝統を受け継ぎ、連帯感を築け」と呼びかけた。『ブラック・イズ・ビューティフル』というスローガンを掲げ、アフロ・ヘアやアフリカ的な衣装を身につけるといったことを含め、黒人のプライドのムードを高めた。その後、妻、ミリアム・マケバと共に西アフリカのギニアに移住。クワメ・ツレと名前を変えた。1998年11月15日、癌により死亡。