【上映会】ジュリア・ドグラ・ブラッツェル映像作品集「クロニクル・オブ・サウンド」+イギリス実験映像特集「大気の中の上昇 そして大地への落下」(トーク出演:ジュリア・ドグラ・ブラッツェル、五所純子)

11月5日(土)17:30開場 / 18:00開演(20:00頃終了予定)

Before I Left
ジュリア・ドグラ・ブラッツェル『出て行く前に』より
日時
11月5日(土)17:30開場 / 18:00開演(20:00頃終了予定)
料金
オンライン前売¥2,000 / 当日¥2,300 ※特別興行の為、パスポート会員使用不可。平日学割適応外。
会場
FACTORY(1F)

イギリスの女性アーティスト、ジュリア・ドグラ・ブラッツェルが手がけた短編映像10作品、そしてここ40年間で制作されたイギリス実験映像の中からセレクトされた5作品を上映。


ジュリア・ドグラ・ブラッツェル『AからBへ』より


映画、ビデオ、サウンド、写真を媒介に作品を制作するイギリスのアーティストJulia Dogra-Brazell(ジュリア・ドグラ・ブラッツェル)が来日し、東京・浅草橋のアートラボアキバでインスタレーションを開催する。これを記念し、UPLINKではジュリア・ドグラ・ブラッツェルが制作した短編映像を近年の作品を中心に一挙上映。併せて、第2部では英国映画協会(BFI)プロデューサーのヘレン・デウィットがジュリア・ドグラ・ブラッツェルの映像作品に触発されてセレクトしたイギリス実験映像5作品を上映する。聞き手に文筆家の五所純子を迎えるアーティストトークあり。


プログラム①

「クロニクル・オブ・サウンド」

ジュリア・ドグラ・ブラッツェル映像作品集


ジュリア・ドグラ・ブラッツェル『ゲームのルール』より


▼上映作品

『AからBへ』(2014年/英語/1分3秒)

『こどもの頃に』(2014年/英語/2分3秒)

『出て行く前に』(2010年/英語/5分15秒)

『プロット 筋書き』(2016年/英語・フランス語/4分45秒)

『ウーシュリフト(原本)』(2014年/1分50秒)

『タクシーに乗った少女』(2007年/英語/3分12秒)

『シアター・ゲーム』(2016年/英語/1分50秒)

『クロニクル・オブ・サウンド』(2015年/ロマンシュ語/7分20秒)

『ゲームのルール』(2015年/英語/3分32秒)

『プロテクション・リーダー』(2013年/1分7秒)


「個人的なものではあるが、同時に疎遠なもの、親密ではあるが、遠くにあるも、ジュリア・ドグラ・ブラッツェルの作品は、独特の魔法を吹きかけて来る。作品の長さは、僅か1分だったり数分だったりするが、その短さ故に、もっと美しくて複雑なイメージや、さらに幾重にも入り組んだ音への欲求に私たちを駆り立て、その虜にしてしまう。しかし一方で、その上映時間は瞬く間に過ぎ去ってしまうので、こちらに向けられたメッセージを感じた我々は、その特別な意味を知ろうと夢中になるのだ。それは捕まえるのが、とても難しい稀少種の蝶の捕獲になぞらえるだろう。その儚げな美しさを存分に愛でる余裕や、こうしたまたとない時間を我々に与えようとする優しさも見せることもなく、一瞬、腕にとまり、風に乗ってどこかへ飛び去ってしまうのだ」(ヘレン・デウィット / BFI映画部門部長、ロンドン・フィルム・フェスティバル プロデューサー)

※全て日本語字幕なし。当日に日本語訳資料を配布します



プログラム②

「大気の中の上昇、そして大地への落下」

イギリス実験映像作家5人の作品選集


「ジュリアの魔術的でしかも現世的世界の短い探訪を延長するために、最近40年のイギリス映像作品のいくつかを選び上映しよう。これらの作品は軽快さと繊細な表現を楽しもうとすることへの共通した洞察を持っているが、同時に表現的な深みを持っている」(ヘレン・デウィット)


▼上映作品

『エアリエル』マーガレット・テイト(1974年/4分)

(c)Margaret Tait (c)LUX, London

『カメレオン』 ターニャ・シェッド(1990年/4分)

(c)Artist (c)LUX, London

『デヴィアント・ビューティー / 異形の美人』ティナ・キーン(1996年/4分)

(c)Artist (c)LUX, London

『葬送の段階』サラ・プーシル(2003年/19分)

(c)Artist (c)LUX, London

『旅から帰還した女』ルース・ノバチェック(2016年/10分)



Julia Dogra-Brazell(ジュリア・ドグラ・ブラッツェル)



ジュリア・ ドグラ・ブラッツェルは映画、ビデオ、サウンド、そして写真作品を制作しているイギリスのアーティストである。80年代の初めロンドン大とケンブリッジ大で文学を学び、90年代後半、セント・セントラル・マーティンズ美術大で学んでいる時、生来持ってい物語、詩、歴史、記憶などの興味から映像文化全般へ興味の軸を移行させた。文学、写真、ファインアート等の学位を持ち、複数の大学で映像、写真の講義を続けている。作品発表に関しては、ロンドンにおいては、ルィーズ・ブルジョア・ファンデーションで開催された「アート・アフター・ダーク」、サーペタイン・ギャラリーで開催された「スモール・メディウム・ライブス・オン」、ラックスで開催された「フィルム・アート」などがある。また彼女は英国映像協会(BFI)の主催するロンドン・フィルム・フェスティバルの常連作家であり、今年度2016年も同フェスティバルでの作品上映が決まっている。最近のフィルム作品の海外招待としてはオーストラリア国際実験映像祭、ベオグラードで開催されたオルタナティブ・フィルム/ビデオ・フェスティバル、「第53回アン・アーバー フィルム・フェスティバル」「アルケミー・フィルム/ムービングイメージ・フェスティバル」などがある。また彼女のための特別プログラムが2015年ニューメキシコの「エクスペリメンツ・イン・シネマ」で開催された。公的機関によるドグラ・ブラッツェルの映像作品の所蔵としては、ブリティッシュ・カウンシル・フィルム・ダイレクトリー、BFIアーカイブ、そしてブリティッシュ・アーティスト・フィルム・アンド・ビデオ・スタディ コレクションなどの所蔵がある。




「ジュリア・ドグラ・ブラッツェル」(文:太田エマ/「クロニクル・オブ・サウンド」企画者)


 断続し、痙攣するような精神の働きに似て、ジュリア・ドグラ-ブラッツェルの映像は点滅する光の列として、瞬間的爆発と、引き延ばされた時間、記憶、そして知覚へと集中する。ここには、強い力が働いている。それは一つの素早い連続の中でイメージを次々に飛ばす力、もしくは永遠に続くように思われる一つの情景の中に我々を包み込む 繊細な静止画への志向がある。

 我々は、激しく断片がぶつかり合うローラーコースターの虜になってしまうが、次の瞬間、動きは凍りつき、その場所で、今度は我々自身の持っている世界を貫く凄まじい突進力に捕まれてしまう。そして、どこにいるのかも分からずに、行く先の手がかりも絶え間なく撹乱される異空間へと招待されるのだ。

 ここには具体的ではないが、言外の提案がある。それは現代生活のデジタルが支配する領域の中の透明度や、高解像度の追求とは相容れないアナログ的な、一種の毛ばたちのようなものであり、それは次のようなことを再認識させてくれる。質感、つまり露光が激しく上下する映像媒体のパルスの中でスペックや粒子は、我々が外的世界のリアリティと遭遇するのは、主観的フィルターを通してであることを意識させ、またいささか辟易とする皆が当たり前と考えている論理に反抗し、「アート、つまり擦り切れた世界の解釈に対しての根本的な抵抗手段」を更新することを再確認させる。

 しかし我々が向かい合っているのは、単に視覚的なリアリティだけではない。つまりイメ ージだけではなく、脈打つ音のリズムは、時間や空間の破片を通り抜け、我々を導き出す。 語られる物語りの音色、過剰なほどの鳥の歌の清澄さ、蝶の羽ばたきが作り出す一陣の風、スクリーンの砂の海の深い底で響き渡る音の鼓動、すべてが連結し、どこか他の場所へと我々を導いて行く。時にはイメージの方が、音体験の従属的なものに見えることもある。音は我々の周りを回転し、感覚に衝撃を加え、忘れてしまった情景 や、過去の感情を撹乱する。

 ここでは文学や言語が、この視覚的、音声的な結びつきの語彙の中心に位置している。 しかしそのボキャブラリーは、確立した文法を拒絶し、たとえシャーロット・パーキンズ・ギルマンの「黄色い壁紙」、もしくはアルチュール・ランボーの「戦争」への言及であっ ても、ここには新しい創造的な言葉が、すでに姿を現し初めている。その言葉は、一つの意味表示から次へ移動する時には嬉しくて、飛び跳ねるかも知れない。そして我々の方では(その言葉を)整然とした言語体系へと同化させようと試みるが、時系列の歴史や物語の成立は常に阻まれているのである。言葉は十分に積み込まれている。しかし決まり切った指示体系を超えているのである。

 ドグラ・ブラッツェルの作品を決定する要素とは、何が語り尽くされていないか、何が描かれていないかと言うことである。目の瞬きは眼前の世界にシャッターが据えられた時の一瞬を意味するだろう。そしてこの瞬間、我々の内側と外側に、同時にどんなことでも起こり得るのだ。 これらの視覚の流れの中に、ある裂け目、一つの言葉から次への言葉へ移行するわずかの間のためらい、突発的で予想出来ない、リズムが変調した音は、アーティストの指示の伱間を超えることを可能にし、予測すら出来ない関係が出現する自然発生的な休止符をもたらすのである。 つまり、この「間」の中に、私たち自身の精神が、自分自身が投影されるスクリーンを発見するのである。つまり空白の中に現れる「残像」の空間、そしてこの場所こそ、 このアーティストの作品の核心に近づくことが出来る場なのである。

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