小熊英二監督 プロモーション日記

2015年6月10日

 アップリンクの代表と担当に会う。映画は見て興味深かったとのこと。ほんらい冬まで映写予定がいっぱいだが、8月から開いている火曜か水曜の夜に映写し、好評なら長く続けようという提案。プロモーションは、通常のやり方をとらず、極力費用をかけずに進めることで合意。「相互の信頼があれば、お金のかかる度合いは減る」が信条の私としては、それでやってみたいと思った。

2015年6月16日

 アップリンクのスタッフ諸氏と会う。全員、映画は見ておもしろかったという。その後、キャッチコピーやプロモーションの進め方について相談。お金がかかる通常の試写場は使わず、私の知人が紹介するスペースを無料使用することで合意。チラシの作成などは、映画でインタビューに出ている小田マサノリ氏に頼むことにする。

2015年6月17日

 メキシコの大学で上映会をやってくれた。昨年に教えた学生の感想が、メールで届く。「観て何度も笑ったし、泣いた。日本の人々が、この映画に映っている経験を忘れなければ、未来は必ず彼らの手の中にあると思う」。

2015年6月18日

 小田氏がチラシその他の作成を快諾。他のほとんどの出演者はすでに5月の関係者試写で観ているが、彼は観ていなかったため、サンプルDVDを送る。

2015年6月19日

 試写会場の手配。撮影の石崎氏の紹介や、私の知人の編集者のつてで、無料で借りられる会場を探す。アップリンクも、プレ上映を兼ねて8月に二回、無料提供するという。

2015年6月22日

 6月末よりオーストラリアのメルボルンで開かれる学会に行くため、その前にチラシ類のコピー、コンテンツ、監督インタビューなどの手配をすませる。

2015年7月1日

 学会で行ったメルボルンの大学で、映画の上映会。オーストラリアやシンガポール、中国などから集まった研究者などに見せる。大好評で、幾多の感想を聞く。ロシアからきた学者は、インタビューで出ていた吉田理佐氏を評して、「おとなしい彼女が声をあげるようになる過程がこの映画のみどころだ」と述べた。その後、幾人かと話しあい、各国での上映会の可能性を探る。

2015年7月3日

 ロケの仕事でバリにいる石崎氏とメール交換しつつ、メルボルンのホテルにて予告編の最終作業。

2015年7月6日

 台湾で開かれる映画祭のため、英語字幕をはずしたバージョンを石崎氏から台湾側の担当に送ってもらう。先方の企画者は、2年前に台湾に行ったさい会ったドキュメンタリー監督。

2015年7月10日

 新宿で試写。通常はイベントバーだが、昼の空いている時間を無料で借りた。場所がわかりにくいので、私が入口に立って案内。知人の作家、学者、劇作家、デザイナー、新聞記者、テレビディレクター、ミュージシャン、編集者など、合計30人ほど来る。映写後は、自然に拍手がわいた。終わったあと、質疑応答では賞賛とコメントがあいつぐ。インタビューで出ていただいた双葉町出身の亀屋幸子氏は、私に感謝の言葉をくれた。その後は、やはり試写にきていた小田氏と国会前へ行く。

2015年7月12日

 10日にもらったコメントのうちいくつかを、宣伝に使いたいとメールで頼む。全員快諾。コメントは、開設されたHPに掲載された。http://www.uplink.co.jp/kanteimae/comments.php

2015年7月15日

 国会前へ行く。「映画を作ったそうですね」と何人もの人に声をかけられる。まだチラシも作っていないのに、意外と知れ渡っているのに驚く。運動界隈の人づて・口コミ・ネットコミの威力を感じる。

2015年7月17日

 試写二回目。神保町の出版社の会議室を、編集者と会社の好意により無料で借りた。見にきたのはマスコミ関係者を中心に10数名。映写後、ほぼ全員が映画を賞賛。質疑応答では、さまざまな感想や意見があいつぐ。「語りたくなる映画」だとみな言う。アップリンク側と相談し、一般上映のさいもディスカッションの時間を設けることで合意。この日に映画のHPが公開。 夜はまた国会前へ行く。

2015年7月18日

 東京で開かれた国際シンポジウムのディナーに行く。名刺交換し、フランスでの上映会の可能性を探る。試写に何人か招待する。

2015年7月19日

 シンポジウムで報告。その後に声をかけてきた学者や記者を、試写に招待する。人が集まるところには、ネットワークが広がる。

2015年7月21日

 ドイツのNGOが企画した交流プログラムでレクチャー。その後に企画者に、ドイツでの上映会の可能性を打診。

2015年7月23日

 神保町の出版社会議室で試写。マスコミ関係者やフリーライターなど、20名あまりが集まる。映写中、前回の試写をみた英字新聞の記者の取材をうける。映写はあいかわらず好評で、その後は質疑応答が1時間近く続く。「感動した」「おもしろかった」「デモに対する見方が変わった」といった反応が多い。

2015年7月24日

 国会前に行く。ドラムを叩いていた小田氏と会い、チラシその他のデザイン作業について話す。横でやはりドラムを叩いていた吉田氏に、メルボルンでの評価を伝える。またいろいろな人に、「映画を作ったそうですね」声をかけられた。映画に映っている人びとや、幾人かの学者に会い、会話をかわし、試写の案内をする。

2015年7月29日

 神保町の出版社会議室で試写。マスメディア、ライター、編集者などの人々が集まる。活発な質疑応答があり、みな熱心にアンケートを書いていく。こういう反応はあまりないとアップリンクの人は言っていた。上映中には、いくつかのインタビューをうける。

2015年7月31日

 神保町では最後の試写。また上映中は取材をうけ、終了後は質疑応答、そして伊勢崎賢治氏と映画をめぐり対談。そのあと国会前に行く。このところ、金曜の国会前は、安保法制反対の抗議と、原発再稼働反対が交錯している。映画の出演者をはじめ、知人の幾人かとあいさつを交わす。

2015年8月5日

 午後に外国人記者クラブ(JFCC)にて試写会。その後に英語で質疑応答。いろいろな質問が出たが、概して好評。その後の8時から、アップリンクにて試写を兼ねた第一回のプレ上映。上映後拍手があがる。上映後、ゲストの高橋源一郎氏と対談。高橋氏は入念に準備してきており、とても知的刺激の多い対談だった。

2015年8月7日

 千葉で開かれた国際学会で発表。私が英文で公表した災害復興の論文をネット上でみたドイツ人の学者が、日本の原発立地地域の概況について報告してくれと依頼してきたためである。専門ではないが、20分くらいの英語のプレゼンをまとめ、質疑応答。メールでしかやり取りしていなかったドイツ人の学者に初めて会い、ドイツでの上映の可能性を探る。

2015年8月11日

 東中野の映画館にて、ドキュメンタリー映画の監督とアフタートーク。震災後に原発事故について映画を作った、フランス在住の監督である。トークの前後に、フランスでの上映可能性について聞く。

2015年8月12日

 映画のプロモーションのため、FMラジオ放送に出演。20分くらいの番組出演で、言えることは限られるが、できるだけのことを述べる。

2015年8月17日

 午後にAM放送ラジオに出演、夕方にはスカパーで出演。いずれも映画のことなどを話す。

2015年8月19日

 アップリンクにて、第二回のプレ上映。上映後にやはり拍手がおこり、その後の質疑応答は活発。出演者の吉田理佐氏が観客できており、彼女の名文句である「微力は無力じゃない」について好意的コメントが観客から出ると、ややはにかんでいた。上映中は三件の取材を受ける。新聞や雑誌にも、いろいろ記事が出始めた。

2015年8月20日

 東京新聞の夕刊一面に、映画についての記事が大きく出る。安保法制の抗議デモが広がっているので、その相乗効果で映画に注目が集まっているようだ。アップリンクも東京新聞をとっており、オフィスで「ちょっとした騒ぎ」になったとのこと。上映中の映画が新聞の一面に載ったのは初めてだという。

2015年8月21日

 金曜なので国会前に行く。出演者数人といろいろ話す。昨日の東京新聞の記事をみたと、何人かから声をかけられる。その記事を書いた記者もきており、あいさつした。

2015年8月22日

 アップリンクが、9月の追加上映を決定。隔週水曜の夜8時の回にくわえ、9月19日土曜から毎日、朝10時半から上映するとのこと。

2015年8月23日

 青山での安保法制の抗議デモに行こうとしたら、上映初日の9月2日にゲストで来るSEALDsの人に、電車の中でばったり出会う。しばらく話したあと集合場所に行ったら、何人もの人から、映画を観る予定だと声をかけられた。

8月30日

 国会前での大規模集会。現実と映画のシンクロを感じる。

9月2日

 アップリンクでの映画初日。というか、急きょ19日から毎日上映が決まったので、先行上映会と名称変更。満員。上映中はメディアの取材をうけ、アフタートークに出る。ゲストはSEALDsの奥田愛基氏と梅田美奈氏。自分はできるだけ、二人の解説役に努める。テレビの取材も入った。再録は、http://www.webdice.jp/dice/detail/4856/

9月11日

 水俣にシンポジウムに行く。水俣で患者支援をやっていた人々などに、映画のことを話す。

9月16日

 午後はオランダの記者から映画について取材。夜は渋谷アップリンクで映画の先行上映二回目。前日の国会前での抗議を取材していた中京地区のテレビが、上映後のディスカッションを撮影した。ディスカッションでは、観客から議論百出。できるだけ丁寧に答える。

9月17日

 夕刻、新宿のネイキッドロフトで、ミサオ・レッドウルフおよび香山リカの座談に出席。映画の予告編を流す。さらに、仙台で自主上映してくれてるカフェ「火星の庭」にスカイプで出演。作家の中沢けい氏や、集まっている人々と話す。その後は、ミサオ氏や香山氏と一緒に、タクシーで国会前の抗議に合流。

9月19日

 この日早朝に安保法制が可決。深夜に国会前でスピーチ。
この日、東京ではアップリンクでの映画初日。午前10時半からの一回上映だが、客が入りきれず。この日は、前から決まっていた四日市の高校で講演のため、名古屋に立ち寄る。名古屋の映画館シネマスコーレに立ち寄り、上映後に挨拶。四日市の高校では、あらかじめ映画を観てもらっていた高校生たちから、さまざま意見が出た。

9月20日

 日比谷で戦場体験シンポジウムに出席。これもテレビに映る。渋谷アップリンク、名古屋シネマスコーレでは、客が満員とのこと。アップリンクでの上映後は、スタッフの方々と、官邸前抗議のゲリラカフェの女性が司会となり、観客同士のトークシェアをやってくれた。のちに、「通常上映の中で毎回、人手と時間を割いてこのような場を設けるのは、おそらく初めての試みでしょう」と評された(飯田基晴「ドキュメンタリー映画製作私論」、『ビデオサロン』2015年11月号)。

9月21日

 台湾に出発。自分の本『生きて帰ってきた男』が台湾で翻訳出版され、そのプロモーションのため、台湾の出版社に招聘された。ついでに映画の上映も企画している。

9月22日

 台北で本について数本の取材をうけたあと、出版社の上映スペースで映画を上映。主催は台湾の反原発運動団体。中国語字幕も、ボランティアでつけてくれた。上映後、台湾の反原発運動を記録したドキュメンタリー監督とトーク。台湾の「ひまわり運動」と比較して、客席から議論多数。

9月23日

 台湾中央研究院で東アジア戦後史について講演。夜は台北の大手書店で、映画の上映会。「ひまわり運動」を記録した台湾のドキュメンタリー監督とアフタートーク。客席からも質問と意見が多数。

9月25日

 昨日は台湾大学で講演と、書店での講演会。この日は、数本の取材のあと、台湾師範大学で日本の社会運動について講演。台北の二回の上映で映画を観た学生もおり、多くの質問をこなす。

9月27日

 前日に台湾から帰国。朝は安保法制の可決受けたNHKの討論場組に出席。夜は大阪の映画館シアターセブンの上映にあたり、スカイプでアフタートークに出演。これでも、けっこうコミュニケーションできるとわかる。観客から、あいかわらず意見や質問多数。

9月30日

 夜はアップリンクでのトークシェアに出かける。まず観客同士で話してもらい、さらに質問や意見を言ってもらう。こちらはできるだけ話さず、司会ないし触媒となり、相互の議論が出てくるようにしむける。ここのところ上映は満員が続き、アップリンクは上映回数を増やした。

10月2日

 昼間は八王子の実家にいる父を訪ねる。夕方から、帝国ホテルで授賞式に出席。著書が賞をもらったためである。この賞を主催する出版社の編集長も、映画を観て賞賛するブログを書いた人だ。
 受賞パーティのあと、近くの銀座に行き、安保法制成立後のデモの解散地点の交差点に行く。映画出演者の木下茅氏と、情勢について話し合う。その後、後片付けをしていたSEALDsの面々と会い、高校生グループのT-nsSOWLの高校生たちを、アップリンクでの映画上映に招待すると告げた。観たあと、ツイッターなどで宣伝してくれるという。

10月9日

 横浜の関内で、自主上映会。上映後のトークシェアのために出向く。ここでも、できるだけ触媒役をやるが、話を聞きたがっているようなら話す。客は老若男女さまざま。出てくる意見もさまざま。「デモは好きではないし、いまでも行こうとは思わないが、映画は観てよかった」という意見もあり。こういう意見が自由に出てくる雰囲気は大事にしたいと思う。

10月10日

 山形国際ドキュメンタリー映画祭に、『首相官邸の前で』が出品されるため、招待で行く。夕方に着き、映画を一本観る。

10月11日

 山形県立美術館で映画を上映。客は200人くらい入り、満員。上映後は質問が多く出たほか、自主上映をしたいという声が多かった。「一回二万円ですから、自宅のリビングに友人を20人集め、千円ずつ出してもらえば元が取れる」とよびかける。撮影の石崎俊一氏もかけつけ、満場の拍手を浴びていた。

10月13日

 山形映画祭のあいまに、台湾の「ひまわり運動」、および香港の「雨傘革命」を記録した、それぞれの監督たちとディスカッション。両者とも、映画祭のために山形に来ると知っていたので、事前に連絡をとり、会って話をしようとセッティングしていた。映画祭事務局に相談し、会議室を借りる。もともと編集者だったので、こういう企画を立てるのは苦ではない。お互いに、企画や制作時の工夫などを意見交換し、有益な時をすごす。みなさん、私だけのために英語で話してくれるのが少々恐縮。その後、新聞にこのときの意見交換についてエッセイを寄稿した。

10月14日

 山形から昼過ぎにもどり、午後はアップリンクの上映後トークシェアに行く。こんどは、観客同士に話しあってもらったあと、「誰か司会をやりたい人はいますか」と声をかけたら、あっさり一人の男性が手をあげて出てきた。彼に司会をやってもらい、観客同士に議論してもらい、私は司会にふられた時だけ話す。映画とおなじく、指導者のいない発言空間を実現したほうがいいのだから、私の役割が小さくなるのはいいことだ。

10月19日

 渋谷のハチ公前広場で開かれたSEALDs主催の街宣活動に行き、テレビの取材を受ける。放映のさい、可能ならば映画の予告編をはさんでもらうように頼む。アップリンクのスタッフが二名、上映のフライヤーをまいていた。

10月21日

 定点観測している三陸沿岸の被災地に行く。このあと24日まで、気仙沼、陸前高田、女川、雄勝、石巻をまわり、復興状況を聞いた。

10月24日

 石巻から鉄道で仙台へ行き、仙台の映画館である桜井薬局セントラルホールに行く。9月の「火星の庭」での自主上映を企画した女性と、SEALDs東北が宣伝してくれたため、この日の三回の上映は170隻がほぼ満席。仙台で唯一の独立系映画館を維持する館主と、昼食でいろいろ話す。客席からも意見や質問が百出し、SEALDs東北のメンバーたちと、活発なトークシェアを行なう。
映画を観るだけなら、ビデオでもネットでもいい。しかし、映画をめぐって人が議論する空間は、映画館でないと作れない。

10月25日

 法政大学で開かれたシンポジウムに出席。あいまに、9月の横浜の上映にきた新聞記者から、映画およびトークシェアについて取材をうける。映画の内容だけでなく、自主映像を集めた映画の作り方や、トークシェアを交えた上映のあり方、劇場上映と並行した自主上映の拡散も、新機軸と受け止められているようだ。

10月26日

 新宿で、映画を観た旧知の教員に会う。毎回のトークシェアには、ほぼ必ず、教員が一人はいる。まじめで社会情勢を考えているからだろう。教員ネットワークで、自主上映を広げられないか、相談する。

10月28日

 アップリンクで夜の上映のあと、トークシェアに出席。あいかわらず活発な質疑が止まらない。一時客足が落ちていたが、また回復してきたとのこと。アップリンクは上映予定を固定せず、客足しだいで翌週の上映スケジュールを決めているが、11月も上映してくれるそうだ。

10月30日

 しばらく多忙で行けなかった、首都圏反原発連合の金曜官邸前抗議に行く。出演者のミサオ・レッドウルフ氏や服部至道氏などと会話を交わす。映画に出ても、情勢が変わっても、抗議の参加人数に波があっても、彼らは変わらない。

10月31日

 神戸の元町映画館での上映に、スカイプで出演。昼に実家の父の90歳の誕生日を祝いに出かけていたため、夜のスカイプ出演の予定を忘れてしまい、風呂に入っているところにアップリンクからの電話を受けた。あわてて風呂上りでスカイプをつないだが、お客さんたちは待っていてくれ、その後は活発に質疑応答。最後はスカイプから手を振って客を送り出したが、私の姿をみていた映画館のスタッフから「お風呂上がりですか」といわれた。とはいえ、みなさん喜んでくれたと思う。