イントロダクション

どんな斬新なスタイルを作っても、すでにヴィダル・サスーンがやってるんだ

60年代、ロンドン。ポップで軽やかなファッションが世界を席巻した。

1950~60年代、イギリスの首都ロンドンを舞台に誕生した文化、スウィンギング・ロンドン。ミニスカートのマリー・クヮントとともにファッションシーンを牽引したヘア・スタイリストが、ヴィダル・サスーンだ。 サスーンのサロンには多くのモデルや女優、著名人が集った。ミニスカートの女王ツィギー、数々のファッション誌の表紙を飾ったトップモデル、ジーン・シュリンプトン・・・彼女たちを魅了したものは一体何だったのか? これまでの、スプレーで固めた窮屈なヘアスタイルではなく、「ウォッシュ&ゴー」(=洗ったまま何もしなくても出かけられる)と称されるスタイリングは、女性のヘアだけでなく、生き方をも自由にした。 彼の斬新なヘアスタイルはVOGUEの表紙をかざり、ロマン・ポランスキー監督『ローズマリーの赤ちゃん』ではミア・ファローのヘアカットを担当するなど、ロンドンだけにとどまらず世界中に広まっていった。

孤児院から国際的セレブへと至る、波乱の人生を描いたドキュメンタリー

ロンドンの孤児院で育ち、ユダヤ人排斥の波の中で戦争と貧困を生き抜き、国際的な名声をおさめるに至ったヴィダル・サスーン。髪を盛り、オカマ式ドライヤーでセットし、スプレーでセットするという旧態依然とした美容界に断固たる信念を持って抵抗し、常に新しい変化を求め、やがて美容界のみならず当時のファッション、カルチャーへと変革を与え、時代そのものをクリエイトしていった。渡米、実業家としての成功。今なお影響を与え続ける「ハサミ一つで世界のファッションを変えた男」の軌跡を、VOGUEのグレイス・コディントンは「えり足をカットした時に感触で分かったわ。 “終わったよ 頭を振って”…忘れられないわ」と語り、盟友マリー・クヮントは「女性の髪を変えたのはあなただわ」と語った。

vidalsassoon

サスーンとマリー・クヮント

▲ scroll to top

ヴィダル・サスーン インタビュー

vidalsassoon

vidalsassoon

vidalsassoon

DD:映画のことを最初に知ったのは?

サスーン:なかなかおもしろい話なんだ。2年前、私の親友でNYのヘアケア製品メーカー、バンブル&バンブルの創設者である美容専門家のマイケル・ゴードンが、私の80歳の誕生日プレゼントとして、私の人生を描くドキュメンタリーを作りたいと言った。お金もかかるしプロのスタッフも必要じゃないかと私が言うと、「お金もスタッフも用意した」と彼は言うんだ。私は考えさせてくれと頼んだが、翌日には、私たちは映画の製作に着手した。マイケルがプロデューサーとなり、若手監督クレッグ・テパーを起用した。彼はすばらしい映画を作ってくれた。初めて映画を観たとき、うれしい場面もたくさんあったが、私をおだてるための映画ではない。元スタッフの1人が「ヴィダルとの共同作業はどうだった?」と聞いたら、監督は「彼は普通じゃない!」と答えたそうだよ。

DD:マリー・クヮントも映画でインタビューに応じていますね。一番心に残ったセリフは?

サスーン:実はマリーはインタビューの10日前に腰の手術を受けていたから、インタビューは無理かもしれないと思っていた。ところがインタビューは実現し、10分の予定が1時間半に及んだ。彼女のインタビューの一番すばらしかった点は、単なる回想に終わらなかったことだ。未来についても語っている。それは私たちがいつもやってきた未来に視点をすえるという姿勢を反映している。

DD:撮影で一番感動したのは?

サスーン:気持ちがたかぶることは何度もあったが、長女のカチャの薬物過剰摂取について話した時が一番つらかった。でも、全てを語ったから、いい映画になったんだよ。

DD:自伝も書かれていますね。それについて聞かせてください。
※『ヴィダル・サスーン自伝』(株式会社髪書房)

サスーン:3年前、英国の一流出版社カペル&ランドのジョージア・カペルとアニタ・ランドから自伝の出版を持ちかけられたが、その時は断った。その後、気が変わって、ゴーストライターに頼らず自分の言葉で自伝を書きたいと思った。とてもすばらしい経験だったよ。ロンドンの優秀な編集者チームが協力してくれた。私の人生における成功はいつも、一流のチームに支えられていると思うよ。

DD:「Cutting Hair the Vidal Sassoon Way(仮訳:ヴィダル・サスーン流ヘアカット)」(1978)などのマニュアルには、「ヘアカッティングの心理学」と題する章 があり、骨格についての解説もあります。美容における解剖学の重要性は?

サスーン:言うまでもなく、カット前に顔を分析し、骨格を知り、骨の高さを研究することで、どの角度から見ても盲点がないカットを徹底するんだよ。ヘアカットはお客をイスに座らせてチョキチョキすることじゃない。その人の骨格を研究することなんだ。

DD:ダンスやイサドラ・ダンカン、ボッティチェッリ、エルテなどさまざまな分野から刺激を受けてヘアスタイルを創造してきましたね。今、そのように他の領域から刺激を受ける美容師が今は少ないのはなぜでしょうか。

サスーン:今は利益が優先されているように思う。1960年代の私たちは、儲かるかどうかは分からなくても革新的な何かをすることに興奮していた。ある時、私はスタッフに週末も店に出るように言った。彼らはためらうことなく応じ、私は休憩用に2つの部屋を用意した。週末も休みなく働いた結果、ザ・グリーク・ゴッデスが生まれた。パーマを加えたジオメトリック・カットだ。スタッフ全員が構想に関わり、若い見習いまでもがプロジェクトに加わった。家族のように結束したスタッフのおかげで、私の成功は生まれたんだ。


ヴィダル・サスーン

1928年イギリス生まれのユダヤ人。5歳から11歳までユダヤ教会の孤児院で過ごす。 14歳のとき、美容師アドルフ・コーエンの元へ弟子入り。1948年イスラエル国防軍に参加。帰還後は有名美容師レイモンドに弟子入りし、修行を積む。1954年26歳でボンドストリートに自分のサロンをオープン。二年後には大成長を遂げた。1963年女優ナンシー・クワンの髪をカット。この、世界で初めてのグラデーションボブはVOGUEの表紙を飾り、ヴィダルの名を一気に有名にした。64年、ジオメトリックカットの最高傑作「ファイブ・ポイント・カット」誕生。65年、アメリカ進出。その後カナダ、ドイツにも続々とサロンをオープンした。69年には美容学校「ヴィダル・サスーン・アカデミー」を設立。73年、ヘアケア製品を開発、83年にヘアケア商品の部門を売却。2002年にはサロンとアカデミーを美容店大手のリージンが買収。2012年5月9日、米ロサンゼルスの自宅で死去。享年84歳。彼の名を冠したサロンは世界に31と、アカデミーが14あり、世界のヘアモードをリードし続けている。

▲ scroll to top

プロダクションノート

vidalsassoon

vidalsassoon

クレイグ・ティパー(監督)


これまでにインデペンデント映画やコマーシャルなど、多彩な映像作品を手がける。バンブル&バンブルのマーケティング・教育・ドキュメンタリー映像を担当していたことから、本作を監督。これが初の劇場用長編作である。次作は、アポロの宇宙飛行士の月面着陸に関するドキュメンタリーになる予定。

視覚的に魅力のあるドキュメンタリー

ヴィダルのキャリアの大きな節目はすでに過ぎていたから、過去を主体とする物語になると思った。問題は、過去をいかに躍動的に見せ、ヴィダルの現在の魅力を最大限に引き出すかということだった。私はできるだけ実際の現場(5歳から11歳までを過ごしたロンドンの孤児院など)にヴィダルを連れて行き、さらに資料やスタイル画、暗示的な再現映像なども使って現実感を出した。また、資料写真や映像の多くは時代的に見て白黒であることが明らかだったので、ヴィダルの姿だけをカラーにし、その他は白黒のまま見せることで、ヴィダルが80歳を過ぎてもなお若々しく現役であることを強調しようと思った。

ニューヨークの1LDKのアパートでの編集

監督と撮影に加え、編集も担当した。新たに撮影した14テラバイトを超える映像、資料写真と映像との格闘は過酷な作業だった。編集作業は全て、ニューヨーク市にある小さな1LDKの私の自宅で行った。対象期間が長く素材が多い映画を製作するに当たって、木と森を同時に見ることは非常に難しい。さらに同じ森に生きていることで、作業は一層困難になる。私とプロデューサーのマイケルとジャッキー・ギルバート・バウアーが毎週集まり、映像を検討した。これは視点を維持するうえで重要なことだった。マイケルとの仕事上の関係は非常に良好で、彼の直感を全面的に信頼することができた。

作品の完成

2009年10月、クルー全員でバッキンガム宮殿の中に立っていた。女王陛下と対面した直後のヴィダルにインタビューするため、カメラを抱えて待ち受けていたのである。3年前、ヴィダルの誕生日祝いに、彼の短編映画を作って贈ろうと皆で話し合ったことが脳裏をよぎった。当時、ヴィダルは79歳だった。そして大英勲章第3位を授かったこの日、満面の笑みを浮かべ宮殿から歩いてくるヴィダルは82歳になろうとしていた。 だが、彼が美容界の発展に寄与した足跡は、充分に記録されていない。そして美容界以外に及ぼした多大なる影響についても語られることは少ない。それを世に知らしめることが、僕を含む本作スタッフ一同の本望である。

▲ scroll to top


マイケル・ゴードン(プロデューサー)


1951年、ロンドンで美容室を開業していた母のもとに生まれる。15歳でロンドン中心部にある有名サロン“ルネ・オブ・メイフェア”にインターンとして入店、その後の人生を決定づける経験を得る。1981年、渡米しマンハッタンにBumble&bumbleをオープン。1990年代にヘアケア製品会社を設立。2001年に出版した20世紀の著名な美容師のインタビュー集『ヘア・ヒーロー』の取材で初めてヴィダル・サスーンと対面する。

彼の記録を残すことで、若い美容師たちに刺激を与えたいと思った。

1966年に美容の世界に入った私の頭には、ヴィダル・サスーンの名前は自然とインプットされていた。ヴィダルの店でトレーニングを受けたことも働いたこともないにもかかわらず、彼が美容界における偉大な改革者であることは当然のごとく知っていた。彼の方法論や影響から逃れられる者は、この業界には誰ひとりとしていない。 1990年代半ばに『ヘア・ヒーロー』という本を出版するために、インタビューを申し込んだのがヴィダルとの始めての対面だった。上梓後、プロモーションで全国ツアーをしていた時、「この本の中で最も好きなヘア・ヒーローは?」と必ず質問された。本に取り上げたのは大成功を収めた人物ばかりではあったが、ヴィダルの功績は抜きん出て絶大であり革命的だった。彼こそ、まごうことなき美容界最大のヒーローである。

▲ scroll to top


キャスト

vidalsassoon

マイケル・ゴードン


サロンとヘアケア商品のメーカー、ハンブル&バンブル創設者であり、本作のプロデューサー。
「周囲から大きな尊敬を集める人物だが私にとっては友人としてもかけがえのない存在だ。」
─マイケル・ゴードン

vidalsassoon

レイモンド・ベッソーネ


ヴィダルが師事した有名美容師。通称ティージー・ウィージー。 「たった1本のハサミだけでカットする極意を彼から学んだ」
─ヴィダル・サスーン

vidalsassoon

マリー・クヮント(ファッション・デザイナー)


「君がいかに60年代を変えたか…私は その手助けができたと言う資格があるかな?」
─ヴィダル・サスーン
「女性の髪を変えたのはあなただわ」
─マリー・クヮント

vidalsassoon

グレイス・コディントン (アメリカ版VOGUEクリエイティブ・ディレクター)


「えり足をカットした時に感触で分かったわ。“終わったよ 頭を振って”…忘れられないわ」
─グレイス・コディントン

▲ scroll to top