日米安全保障条約とは

改正前

正式名称 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
調印 1951年 サンフランシコにて
内容 日本は、同時期に調印したサンフランシスコ講和条約によって独立を獲得したが、軍事的に無力であるため米軍がその代役を務めるとの宣言を含んだ前文と、「アメリカ軍を日本国内及びその付近に配備する権利を日本は許与、アメリカ合衆国は受諾する」「日本はアメリカの同意なく基地に関する権利を第三国に許与しない」など主にアメリカ軍の駐留についての全5条の条文から成る。

改正後

正式名称 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
調印 1960年 ワシントンにて
内容 日米間での相互協力の必要性を強調する前文と、「武力攻撃に抵抗する能力を維持発展させる」「アメリカ軍への日本国内の施設および区域の使用を許可する」、そして「この条約が10年効力を存続した後は、いずれの締約国も他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、通告後1年で終了する」という全10条の条文から成る。

60年安保闘争とは―

1960年、岸信介首相(当時)が推し進めた日米安保条約の改正=新日米安保条約の制定への、反対運動。日本の歴史上かつてみられないほど激化した院外闘争で、当時東大生であった樺美智子さんが警官との衝突により、命を落とした。

1956年の『経済白書』での「もはや戦後ではない」との言葉に象徴されるように、戦後急激に経済成長を遂げた日本国内では、日米安保条約のもつ片務性に異議を唱える声が出始めた。翌年首相の座に就いた岸信介が、双務性をもった条約に変えアメリカと対等の立場で明確に自由主義陣営の一角に位置すべきだと主張、日米安保条約の改正=新日米安保条約の制定に乗り出した。

同時に岸は国会に、警官の権限が大幅に認められるという警察官職務執行法改正案を提出。そこには安保改定阻止運動を権力で封じ込めるという意図や、太平洋戦争時に閣僚を務めA級戦犯として逮捕された経歴を持つ岸の戦前回帰の姿勢が見られた。それを察した社会党、マスコミ、学生などが反対運動を行った。警察官職務執行法改正案は廃案となったが、そのときの反対運動のエネルギーは安保改定反対へと転化。「60年安保闘争」である。しかし人々の願いは叶わず、新安全保障条約は1960年6月19日午前0時に自然承認により成立した。

新安保条約の反対活動には、学生だけではなく、芸術家、自営業者、会社員、主婦、高齢者などあらゆる層の人々が参加した。署名・請願も数多く寄せられ、国会が受け付けた請願としては「憲政史上初めて」の規模だといわれている。