映画『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』公式サイト

INTRODUCTION イントロダクション

ジャンルを越えたビジョンのもと、新しいアーティスト像を作り上げた
美輪明宏の華麗な活動の歴史と実像に迫るドキュメンタリー

深作欣二監督が江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本による舞台劇を映画化しカルト的な人気を獲得した映画『黒蜥蜴』(1968年)。この『黒蜥蜴』で妖艶なヒロインを演じた美輪明宏に魅せられたフランス人監督パスカル=アレックス・ヴァンサンは、その魅力に迫るべく、美輪明宏本人への密着取材や、横尾忠則氏へのインタビューを行った。そして、1952年の歌手デビューから、2012年のNHK紅白歌合戦で歌われた「ヨイトマケの唄」(1966年)の逸話や生前の深作欣二監督の発言、そして宮崎駿監督『もののけ姫』(1997年)での声優出演時のエピソードまで、貴重なアーカイブ映像を編集。美輪明宏の唯一無二の実像と華麗な活動の歴史に迫るドキュメンタリー作品『美輪明宏ドキュメンタリー~黒蜥蜴を探して~』を完成させた。

美輪明宏のことば

「私が1952年にシャンソン喫茶で、男でも女でもないという今のビジュアル系の格好で歌い始めて、銀座で有名になったのがきっかけで、それまで隠れていたゲイの人たちもそうしたファッションをしだしたんです。だから日本人は、デヴィッド・ボウイやボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)が出てきたとき、誰も驚かなかったの。そのずっと前に私がいたから」
「私が寺山の『毛皮のマリー』やらなにやらで日本で最初のアンダーグラウンド運動をやっていたときに、北野武監督は、同じ新宿にいてジャズ喫茶のウェイターをやっていたんです。同じユーモアのセンスを持っているかどうかは分かりませんけれど、彼のユーモアは理解しているつもりです」
「もし私が有名になったら、有名になったことでジャーナリストから質問がきてホモセクシュアルであることを言って、それをポピュラーにすることで、市民権を得ることが必要だと思った」
「いつも罵声を浴びせ続けられた。石を投げつけられたり、ガラスのかけらを投げつけられて『バケモノ』だとか『消えてしまえ』と言われたけれど、そのときにとても支えになった言葉が、キリストのマグダラのマリアが石を投げられたときに、かばって、まず罪のない者からこの女に石を投げなさい(『罪なき者は、石をうて』)という聖書の言葉が常に頭にあったんです」
「九州の炭鉱の町で、とても不景気でどん底の生活をしているのに、お金を握りしめて聞きに来てくれる人を見て、この人たちを励ましたいと、『ヨイトマケの唄』を作詞作曲をしてビジュアル系の衣装も宝石も毛皮もメーキャップも辞めて、素顔で歌うようになったんです」
「『フランス語であなたをil(彼)と呼ぶのかelle(彼女)と呼ぶのか、英語だったらheなのかherなのか』と聞かれますが、『呼びたい人のお好きなように』と答えます。日本では人を呼ぶときには『さん』とか『様』と敬称をつけるだけです。だから日本のほうがよっぽど性差別がなくて、進んでいて、リベラルです」

ヴァンサン監督のことば

90年代、私はフランスの日本映画配会社で働いていた。会社には東宝、大映、松竹、日活がフランス向けに売り出そうとしている約200タイトルのカタログがあった。ある時、その会社が深作監督の『黒蜥蜴』の劇場公開を手がけることになる。私は作品がとても気に入ったが、なぜ主演女優の名が"アキヒロ"なのだろうと不思議に思った。日本人の友達に聞いてみると、美輪さんは男性として生まれたらしい。松竹のように大きなスタジオが、女装した男性を大きな役に起用したことに、私はとても驚いた。ハリウッドやフランスのスタジオではあり得ない。そこで、美輪明宏について調べてみることにした。

私は“オフィスミワ”に手紙を送った。「こんにちは、私はパリ在住のフランス人映画監督です。美輪明宏さんに会ってドキュメンタリーを撮りたいと思っています」オフィスミワの皆さんは驚いたと思う。
それから、初めての長編映画で劇映画の“DONNE-MOI LA MAIN”(英題“Give Me Your Hand”)のDVDを送った。2010年に、アメリカを含む12ヵ国で上映された作品である。美輪さんは「いいですよ。でも、まずはあなたにお目にかかりたい」という返事をくれた。私は東京に飛び、銀座で美輪さんやスタッフと初めて会った。じっくり話をすると、美輪さんは自分のキャリアについて私がよく知っていることを分かってくれた。美輪さんを尊敬していること、その大ファンであることも。そして、「いいですよ、映画を撮りましょう」と言ってくれた。

プロデューサー、通訳、撮影監督を連れて再び東京に行くと、美輪さんは自宅で撮影させてくれた。撮影の間、美輪さんは大変協力的で、あらゆる質問に答えてくれた。その素晴らしいキャリアのすべてを、フランスの観客に知ってもらいたかったので、撮影は何と1週間近くにも及んだ。
何よりも、美輪さんはとても暖かく、面白い人だった。素晴らしいユーモアの持ち主なのだ。また、フランスとフランス文化への深い造詣を持っていた。
78歳という年齢にもかかわらず、とても若々しい人でもあった。情熱があるから若いのだ。

パリに戻ると私は編集にかかった。10時間に及ぶインタビュー映像を下記の条件でまとめなければならず、とても難しかった。
・フランスのテレビ用の52分のバージョン
・日本市場向けの63分のバージョン

まとめるには、取捨選択しなくてはならない。何と苦しい作業だったことか! フランス版と日本版は相当異なるものだと私は考えている。
フランス版はより短いだけでなく、使ったフッテージも違った。また溝口彰子さんへのインタビューはすべてカットした。
より長い日本版は、音楽も多く、美輪さんへのインタビューも多い。

フランス版の劇場公開を望む声は大きいが、そうするにはちょっと短すぎた。52分の作品のためにチケットを買ってくださいとはなかなか言えない。そのため、こちらはテレビと映画祭、そしてDVD発売に限定することにした。
どの形でも作品はとても好評で、フランスの雑誌に素晴らしい評が載った。フランスの観客の大多数にとって、それは美輪さんとの初めての出会いだったのだ。硬派な一般紙(フランスにおける朝日新聞ともいえる「ル・モンド」など)にも記事が出た。

フランスでの反響は非常に大きなものだった。
そして、元はフランスのテレビ用だったこの作品の、映画祭での上映が決まる。ゲイ&レズビアンの映画祭ではなく、一般の大きな映画祭での上映だった。やはり反響は大きく、ヨーロッパの各地で上映作品に選ばれた。
そしてさらに、アメリカの複数の映画祭でも上映された。すごい。美輪さんの仕事を世界中に紹介することに、私の映画が貢献できてうれしい。

フランスでは、日本文化といえば三島由紀夫、寺山修司、深作欣二、横尾忠則、宮崎駿そして北野武が有名だ。とてもよく知られている。美輪さんはその全員と一緒に仕事をしている。何てすごいんだろう!

作品を撮ってみて、私が美輪さんが大好きな理由がひとつはっきりした。美輪さんはマイナーなところから出発して、今はメインストリームで大勢に愛されているのだ。どれほど大変な道のりだったことか! ブラボー、マダム美輪。愛情ばんざい!

パスカル=アレックス・ヴァンサン

パリ第3大学で映画史を勉強したのち、フランスの日本映画配給会社で働く。2000年、最初の短編映画“Final Exams”を監督。この作品で組んだLocal Filmsとのコラボレーションで、以後5本の短編映画を監督した。そのうち“Baby Shark”は2005年のカンヌ映画祭短編部門でパルムドールにノミネートされ、短編アニメーション映画の“Candy Boy”は2007年カンヌ映画祭の監督週間で上映される。2009年には初めての長編映画“Give Me Your Hand”(“Donne-Moi La Main”)を監督。一卵性双生児のアレクサンドル&ヴィクトル・カリルを起用したこの作品は15ヵ国で上映され、アメリカではStandard Filmsにより劇場公開された。批評家の評価も高く、ニューヨーク近代美術館が毎年行うイベント、“新しい監督/新しい映画”の上映作品にも選ばれた。

2010年、1960年代に登場した日本の有名な俳優、美輪に関する初めての公式のドキュメンタリー『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』を撮った。

2010年に撮った短編映画“En Colo”ではホモフォビアと闘う作品である。

2011年5月、カリフォルニアを拠点とするバンド、Family of the Yearのミュージックビデオを手がける。“Our Songbook”というアルバムに収められた“The Princess and the Pea”という曲で、YouTubeで視聴できる。

2011年7月、Kill the Youngのアルバム“Thicker Than Water”の一曲“Darwin Smiles”のミュージックビデオを監督。

2012年、2本目の長編映画を撮影予定。“It's In The Trees”(“Dan La Foret”)というホラー作品で、製作はBalthazar Productions(Les Productions Balthazar)とジェローム・ドプフェール、主役はヨーロッパの映画スター、フランソワ・グースケである。

出演者の紹介 横尾忠則 深作欣二

横尾忠則(美術家)

横尾忠則(美術家)

「美輪さんもマルチプルな人間ですから、演出もプロデュースもするし、俳優として役者として出演されるし、衣装も美術装置もデザインして、なにもかもぜんぶひとりでやってしまう人なんです」

プロフィール
1936年6月27日、兵庫県西脇市生まれ。1967年、 寺山修司の「天井棧敷」に参加。寺山や唐十郎の演劇ポスターなどで一躍注目を集め、絶大な支持を得る。以降、パリ、ヴェネチア、サンパウロなど各国のビエンナーレに招待出品、国内外の美術館で多数の個展を開催し、確固たる世界的評価を確立する。

深作欣二(映画『黒蜥蜴』監督)

深作欣二(映画『黒蜥蜴』監督)

「『黒蜥蜴』と同じような世界、というオファーがあって、丸山明宏という男性の俳優が女性に扮して、ヒロインに据え映画を作るというのは、歌舞伎では常識だけれど、映画ではなかなかなかった。そこから、どういうストーリーを作り上げていくかでいろいろディスカッションがあった」

プロフィール
1930年7月3日、茨城県水戸市生まれ、1953年に東映へ入社。 1961年、千葉真一の初主演作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。1973年から公開された『仁義なき戦い』シリーズや『バトル・ロワイアル』(2010年)などアクション映画を中心に話題作、ヒット作を連発。2003年1月12日死去。

Back to Top