“ピンク映画”とは?


ピンク映画とロマンポルノ、アダルトビデオの違い


ピンク映画の歴史

ピンク四天王とピンク映画 林田義行(PG編集長) 











ピンク映画の歴史 (1962〜現在)

1. ピンク映画の誕生
(1957-70年代初)


2. 日活ロマンポルノの始まりと繁栄、 そしてピンク映画の隆盛
(1971-1981)



3. AVの登場とロマンポルノの終焉 ピンク映画の危機
(1982-1989)



4. ピンク四天王の時代
(1990-1996)


5. 四天王からニューウェーブへの継承
(1996-現在)


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1.ピンク映画の誕生(1957-70年代初)


〜 主なできごと〜


1957 ・ショー映画と称するストリップの記録フィルムが公開されはじめる(国映他)
1962 ・ピンク映画第1号・小林悟監督『肉体の市場』(大蔵映画)公開
1963 ・「スーパージャイアンツ」の三輪彰監督『熱いうめき』でピンク映画デビュー
・若松孝二監督『甘い罠』でデビュー
1964 ・小川欽也(和久)監督『妾』でデビュー。初めてパートカラーが採用される
・TBSディレクター今野勉が『裸虫』を撮る
※この頃、ピンク映画製作会社急増。製作本数が百本を超える。一般映画から転出する監督も相次ぐ
1965 ・向井寛監督『肉』でデビュー
・山本晋也監督『狂い咲き』でデビュー
・渡辺護監督『あばずれ』でデビュー
・西原儀一監督『激情のハイウェイ』でピンク映画デビュー
・初のピンク映画専門誌「成人映画」創刊
・『壁の中の秘事』(監督:若松孝二)がベルリン国際映画祭で上映され国辱映画と呼ばれる
・梅沢薫監督『十代の呻吟(うめき)』でデビュー
・女優の扇町京子が『やくざ芸者』で監督デビュー
・若松プロダクション設立
※この頃から配給チェーン網が形成され始める。年間製作本数も二百本を超える
1966 ・大和屋竺監督『裏切りの季節』でデビュー 
・足立正生監督『堕胎』でデビュー
1967 ・初のオールカラー作品として『あばずれの悦楽』(監督/小林悟)など三本が公開
・『胎児が密猟する時』(監督:若松孝二)がブリュッセル国際映画コンクールに出品
1969 ・沖島勲監督『ニュー・ジャック&ベティ』(モダン夫婦生活読本)でデビュー
・足立正生らが永山則夫の足跡を描いた『略称・連続射殺魔』を製作
・東通系(後のミリオン)ピンク映画配給スタート
※この頃からピンク女優の実演つき映画興行始まる
1970 ・小水一男監督(ガイラ)『現代性愛論・私を犯して』でデビュー



〜 概要 〜


“ピンク映画”という言葉が生まれたのは、63年、国営製作・関孝二監督の女ターザン映画『情欲の洞窟』を取材した内外タイムズの記者・村井実によるものであった。
300万円前後という破格の低予算で製作されるピンク映画は、撮影所無き“街場の映画”、粗製乱造のエロ映画として蔑まれながらも、あっという間に上映網を広げていった。製作本数も、24本(63年)、65本(64年)、213本(65年)と、膨れ上がり、最初は、‘裸にさえなれば…’と素人同然の女優を使うこともあったが、次第にピンク映画には欠かせない本格女優や名匠が現れ始める。
そして、この時代を語るには欠かせないのが、若松孝二監督の存在である。様々な職を転々とした後、テレビ映画の助監督業から映像業界に参入。63年、『甘い罠』で監督デビュー。以降、スキャンダルや事件も多い中、彼の名はピンク映画界に轟いていく。プロデューサーとしての頭角も現し、65年、若松プロを設立。大和屋竺、曾根中生、足立正生、沖島勲、梅沢薫、小水一男(ガイラ)、秋山道男(オバケ)、福間健二…といった作家達を輩出していく。若松プロの映画は、ピンク映画という以上に「若松プロの映画」という独自のジャンルと言ってもいい。
この時代のピンク映画は、若松プロ作品を除いては、上映可能なプリントがほとんどないことは、誠に残念なことである。



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2.日活ロマンポルノの始まりと繁栄、そしてピンク映画の隆盛
    (1971-1981)



〜 主なできごと 〜

1971 ・稲尾実(深町章)監督『色くらべ・色布団』でデビュー
・中村幻児監督『完全なる同性愛』でデビュー 
・若松孝二&足立正生監督がパレスチナの記録映画『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』を製作
・日活ロマンポルノがスタート。第1作にピンク女優だった白川和子が起用される
・日活ロマンポルノの併映作品として、予算の高いピンク映画が製作
1972 ・男優の野上正義が『性宴風俗史』で監督デビュー
・女優の谷ナオミが『性の殺し屋』(脚本/団鬼六)で監督デビュー
・若松孝二監督、ATGで『天使の恍惚』を撮り、「無差別テロ映画」と呼ばれる
・高橋伴明監督『婦女暴行脱走犯』でデビュー 
・和泉聖治監督(木俣堯喬監督の息子)が『赤い空洞』でデビュー
・代々木忠監督『ある少女の詩・快感』でデビュー
・浜野佐知監督『17才好き好き族』でデビュー
※この頃、後の東活になる和光映画・ゴールド・田園プロなどが、小林悟監督らを起用し、ピンク映画製作を開始
1973 ・大蔵映画が日活ロマンポルノに対抗して、製作費1億円の大作『人類の性典』(監督:小川卓寛)を製作
・ピンク映画専門誌「成人映画」廃刊
・ピンク映画唯一のスタジオであった大蔵スタジオが閉鎖
1974 全作品がオールカラーになる
1975 ※この頃、日本シネマ・葵映画・国映・東京興映・新東宝の各社の作品が「新東宝配給」として統一される
1976 ・ピンク映画の監督・俳優が「独立映画人協会」を設立。配給会社に製作費のアップを要求
・75年に自主製作された井筒和幸監督『行く行くマイトガイ・性春の悶々』が、ミリオン系で公開
※この頃、東映セントラルが向井寛監督を中心にピンク映画製作を開始。後の獅子プロの母体となる
1978 ・女優:東てる美が製作・監督・出演した『闇に白き獣たちの感触』、自主公開されるも、ピンク系では公開できず
・飯泉大(北沢幸雄)監督『さすらいの性』でデビュー
1979 ・山本晋也監督、所ジョージ主演の『下落合焼き鳥ムービー』(東映セントラル)で一般映画進出
1980 ・第一回ズームアップ映画賞開催 監督賞は渡辺護監督
・磯村一路監督『ワイセツ?ドキュメント連続変質魔』で長編デビュー
・大阪で第一回ピンクリボン賞開催。監督賞を受賞した渡辺護は、翌年同賞の製作で、『好色花でんしゃ』(主演/鹿沼えり・チャンバラトリオ)を撮る
1981 ・井筒和幸監督『ガキ帝国』(ATG)で一般映画進出
・福岡芳穂監督『ビニール本の女・密写全裸』で長編デビュー
・ズームアップ映画賞の母体となった雑誌「月刊ズームアップ」廃刊
・滝田洋二郎監督『痴漢女教師』でデビュー
・ピンク映画専門のミニコミ「ズームアップU」創刊 
・女優の珠瑠美が『復讐セックス・女が犯す』で監督デビュー



〜 概要 〜

ピンク映画の隆盛をにらんで、68年には東映が石井輝男、鈴木則文監督などのポルノ路線をスタートさせ、71年には倒産の危機に瀕していた日活がロマンポルノ路線で起死回生をはかる。撮影所システムの強みを持っていたロマンポルノは、神代辰巳、田中登、小沼勝といった名匠が数々の傑作を放ち、日本映画に確固たる地歩を築いてゆく。しかし、結果としてピンクが発見し育てあげた女優陣達の才能を奪ってゆく、憎い資本力となったのである。そしてこの時代、頭角をあらわしたのが“職人”渡辺護である。65年『あばずれ』でデビュー以来、その斬新かつ見事な演出、技術により、大ヒット作品を次々に作り上げる。『少女を縛る!』(77)、『少女縄化粧』(79)、『密写!緊縛拷問』(79)などで、“緊縛もの”というブランドを確立する。
またこの時代、渡辺監督とライバルと目されたのが、山本晋也監督である。奇しくも渡辺監督と同年65年に『狂い咲き』でデビューした山本監督は、『女湯』シリーズ、『痴漢』シリーズといった喜劇で人気を博す。『痴漢』シリーズは、やがて『痴漢電車』(75)、『痴漢地下鉄』(75)へと発展し、稲尾実(現 深町章)、滝田洋二郎監督に受け継がれてピンク定番の人気路線となっていく。






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3. AVの登場とロマンポルノの終焉 ピンク映画の危機(1982-1989)


〜 主なできごと 〜

1982 ・水谷俊之監督『猟色OL犯す』でデビュー
・和泉聖治監督『オン・ザ・ロード』(松竹)で一般映画進出 
・高橋伴明監督『TATOOあり』(ATG)で一般映画進出。同作に主演した関根恵子と結婚し、・話題となる
・向井寛監督『おんな六丁目・蜜の味』(東映セントラル)で一般映画進出
・中村幻児監督『ウィークエンド・シャッフル』で一般映画進出
・高橋伴明プロデュースで、宇崎竜童(『さらば相棒』)&泉谷しげる(『ハーレム・バレンタインディ』)がピンク映画監督に挑戦。自身の監督作『狼』も含め、東急系でロードショー公開
・廣木隆一監督『性虐!女を暴く』でデビュー
1983 ・片岡修二監督『予告暴行・犯る!刺す!』でデビュー
・女優の五月マリアが『変態若妻責め』で監督デビュー
・男優の北村淳が『女教師・緊縛化粧』で監督デビュー(監督名は新田栄)
・にっかつがロマンポルノ併映用ピンク映画の買い取りを中止
・黒沢清監督『神田川淫乱戦争』でピンク映画デビュー
1984 ・にっかつが1000万の低予算ロマンポルノの製作を開始。ピンク映画の監督が起用される
・渡辺護監督『連続殺人鬼・冷血』で一般映画進出 
・渡邊元嗣監督『女教師・淫らな放課後』でデビュー
・石川均(欣)監督『若妻変態性戯』でデビュー
・周防正行監督『変態家族・兄貴の嫁さん』でデビュー(アップリンクよりDVD発売)
・異色俳優の麿赤児が『性獣のいけにえ』で監督デビュー
・細山智明監督が卒業製作の予定で撮った『実録・桃色家族性活』でデビュー
・関根和美監督『OL襲って奪う』でデビュー
1985 ・望月六郎監督『本番ビデオ・剥ぐ』でデビュー
・佐藤寿保監督『激愛!ロリータ密猟』でデビュー
1986 ・男優の港雄一が薔薇族映画『刺青・愛・裸舞』で監督デビュー
・東映セントラルがピンク映画から撤退
・滝田洋二郎監督『コミック雑誌なんかいらない!』で一般映画進出
1987 ・若手ピンク映画監督の一般映画進出相次ぐ(望月六郎『スキンレスナイト』、福岡芳穂『童貞物語3・とっておきVirgin Love!』、廣木隆一『童貞物語4・ボクもスキーに連れてって』)
1988 ・ミリオンフィルムがピンク映画から撤退
・にっかつロマンポルノ終焉。系列会社のエクセスフィルムがピンク映画製作に乗り出す
・笠井雅裕監督『いんらん姉妹』でデビュー
・橋口卓明監督、薔薇族作品『ときめきの午後』でデビュー
1989 ・ピンク映画専門のミニコミ「NEW ZOOM-UP」創刊。第一回ピンク大賞を選出し、授賞式を亀有名画座で行う
・サトウトシキ監督『獣−けだもの−』でデビュー
・瀬々敬久監督『課外授業・暴行』でデビュー(DVDタイトル:『羽田にいってみろ そこには海賊になったガキどもが今やと出発を待っている』アップリンクより発売)
・岡沢勝洋(勝山茂雄)監督『契約妻の奴隷寝室』でデビュー
・男優の佐野和宏が『監禁・ワイセツな前戯』で監督デビュー
・周防正行監督『ファンシイダンス』で一般映画進出



〜 概要 〜

渡辺、山本監督が開拓した第二次ピンク黄金期とも呼べる時代を鮮やかに引き継いだのが高橋伴明監督である。72年『婦女暴行脱走犯』でデビュー後、新人監督のみじめさを体感し、一時映画の世界を離れた伴明監督は、ライターとして若松プロに出入りするようになり、再び映画を作ることを決意。伴明監督の作品は、時代が生み出す矛盾、憤りへの反発性をもち、若者の犯罪や怒りを作品で荒々しく描きだした。82年、ATG作品『TATOOあり』の豪華なスタッフ、キャストは、伴明監督のピンク時代に築いたチームの集結である。
80年代に入り、AVに若年層の客を奪われたピンク映画は、次第に観客の年齢層を上げていく。一方、邦画界は、自主映画出身監督が力を発揮する時代ともなった。かつてのように一般映画とピンクを大きく隔てていた垣根は低くなったものの、ピンクの製作条件はますます厳しくなっていった。
そんな谷間の時代に『変態家族 兄貴の嫁さん』で84年デビューしたのが、周防正行である。ローアングル、切り返し、抑揚の無いセリフ回し…小津安二郎のパロディをピンクで!というこの映画は、衝撃的な話題を呼んだ。(実際は、パロディではなく、ピンクで小津を再検証するという、彼なりのオマージュであった)また83年、『神田川淫乱戦争』でデビューした黒沢清は、翌84年ロマンポルノ『女子大生・恥ずかしゼミナール』を監督するが、にっかつ側がオクラにし、追加撮影をして一般映画『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85)として公開。その後、黒沢監督、周防監督ともに、一般映画を活動の場として活躍しているのは周知である。そして、ロマンポルノも、88年には製作を休止し、終焉を迎え、ピンク映画そのものの将来が危ぶまれる時代がくる。





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4.ピンク四天王の時代(1990-1996)

〜 主なできごと 〜

1990 ・上野俊哉監督『最新ソープテクニック』でデビュー
・東活が消滅
・一般映画進出監督相次ぐ(小水一男『ほしをつぐもの』、磯村一路『ギャッピー・ぼくらはこの夏ネクタイをする!』、石川均『パンツの穴・本牧ベイでクソくらえ』)
1991 ・男優の山本竜二が薔薇族作品『ハッテンバ・ラブ・ストーリー』で監督デビュー
・男優の池島ゆたかが『ザ・ONANIEレズ』で監督デビュー
1992 ・男優の下元史朗が『離婚妻快感ONANIE』で監督デビュー
・中野貴雄監督『超過激本番・失神』でデビュー
・山崎邦紀監督『超わいせつ息づかい』でデビュー
・水谷俊之監督『ひき逃げファミリー』で一般映画進出
1993 ・松岡邦彦監督『本番露出狂い』でデビュー
・坂本太監督『喪服妻悶絶』でデビュー
・出馬康成監督『風俗天国・ホテトル湿恥帯』でデビュー
・アテネ・フランセ文化センターで「新・日本作家主義列伝」として瀬々敬久監督の特集上映が行われる。翌年にかけて佐野和宏・サトウトシキ・佐藤寿保らの特集上映も行われピンク四天王という呼称が定着
1994 ・「NEW ZOOM-UP」が「P・G」として生まれ変わる
・大木裕之監督『あなたがすきです、だいすきです』で薔薇族映画デビュー
1995 ・友松直之監督、薔薇族作品『わがまま旋風』でデビュー
・国沢実監督『巨乳・はさんで咥える』でデビュー
・今岡信治監督『獣たちの性宴・イクときいっしょ』でデビュー(DVDタイトル:『彗星まち』アップリンクより発売)
1996 ・男優の荒木太郎が『異常露出・見せたがり』で監督デビュー
・佐藤寿保監督『藪の中』で一般映画進出
・サトウトシキ監督『LUNATIC』で一般映画進出
・男優の清水大敬が『レイプ願望・私をいかせて!』で監督デビュー
・女優の吉行由実が『まん性発情不倫妻』で監督デビュー
・榎本敏郎監督『禁じられた情事・不倫妻大股びらき』でデビュー


〜 概要 〜


ピンク映画は、80年代後期、まさに衰退の一途をたどる。88年6月、にっかつロマンポルノが終焉を迎え、80年代半ばから急成長したAV=アダルトビデオの影響が大きく、成人映画館の観客離れが目立ち始めた。86年に東映セントラル、87年にミリオン、90年に東活がピンク映画の製作を中止した。観客も映画館も減少、となれば、当然ながら製作本数も減り、80年代半ばまでは年間200本以上作られていたピンク映画も、この頃には150本ほどになる。またこの時期、80年代を支えた、獅子プロ、雄プロ、ユニットファイブの若手監督達が次々とメジャー作品を撮り、ピンク映画から離れていく。
そんなピンク映画の氷河期であった89年、サトウトシキ監督(『獣−けだもの−』)、瀬々敬久(『課外授業・暴行』)、佐野和宏監督(『監禁・ワイセツな前戯』)が相次いでデビュー。85年にデビューした佐藤寿保(『激愛!ロリータ密猟』)と共に、「ピンク四天王」と呼ばれ、90年代ピンクをリードする存在となる。
監督達自らが集まって話し合いを重ね、自ら作品を売り込みにいくということから、アテネフランセ文化センターでの特集上映「新日本作家主義列伝」が実現。93年11月から3ヶ月ごと1年間にわたり、4人の監督が取り上げられ、毎回大盛況を収めた。それがきっかけとなり、「ピンク四天王」の名は一躍映画ファンにも知られることになり、ロッテルダム国際映画祭での上映、オールナイトなど、彼らの作品が絶え間なく話題を集めるというまさに一つのムーブメントが起きたのだった。ピンク映画やロマンポルノの初期は、裸というものが、社会に対する抵抗力となり得た時代だが、90年代はもはやそうではなく、そしてそんな抵抗力を持ち得ないピンク映画界に生まれた四天王の作家達は、社会への新しい抵抗力を探し求め、生み出し、表現していった。そして彼ら独自の作品により、ピンク映画を変えていく結果となったのである。





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5.四天王からニューウェーブへの継承(1996-現在)


〜 主なできごと 〜

1997 ・瀬々敬久監督『KOKKURI/こっくりさん』で一般映画進出
・瀬々敬久監督作品『雷魚』がユーロスペースにて公開
・田尻裕司監督『イケイケ電車・ハメて行かせてやめないで!』でデビュー
・女池充監督『白衣いんらん日記・濡れたまま二度、三度』でデビュー
1998 ・瀧島弘義監督『人妻銀行員・不倫密会』でデビュー
・鎌田義孝監督『若妻・不倫の香り』でデビュー
・園子温監督『男痕』で薔薇族映画デビュー
1999 ・ピンク映画の名画座であった亀有名画座が閉館する
・工藤雅典監督『人妻発情期 不倫まみれ』でデビュー
・坂本礼監督『セックス・フレンド 濡れざかり』でデビュー
・田尻裕司監督『OLの愛汁 ラブジュース』(アップリンクよりDVD発売)が映画芸術、日本映画プロフェッショナル大賞などでベストテン入選し、高く評価される
2000 ・P1グランプリが中野武蔵野ホールにて開催される
・カジノ監督『鎖縛 SABAKU』でデビュー
・菅沼隆監督『見られた情事 ズブ濡れの恥態』でデビュー
2001 ・瀬々敬久監督『トーキョー×エロティカ 痺れる快楽』で、ピンク映画初のデシタルビデオ撮影が行われる(同年ユーロスペースにて一般公開)
・第2回P1グランプリが開催される
・小林悟監督死去
2002 ・サトウトシキ監督作品『PERFECT BLUE 夢なら醒めて・・・』が一般映画として劇場公開
・樫原辰郎『美女濡れ酒場』でピンク映画作品賞、監督賞、脚本賞を受賞
2003 ・城定秀夫監督『味見したい人妻たち』でデビュー
・池島ゆたか監督作品『恋する男たち』第12回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて上映
2004 ・吉行由実監督作品『憧れの家庭教師 汚された純白』がゆうばり国際ファンタスティック映画祭で上映
・吉行由実監督作品『せつないかもしれない』が第13回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映
・荒木太郎監督作品『お友達になりたい』シネマ下北沢(現シネマアートン下北沢)で上映
・蒼井そら、吉沢明歩などといった人気AVアイドルがピンク映画に出演
・いまおかしんじ監督作品『たまもの』がユーロスペースで上映(アップリンクにてDVD発売)


〜 概要 〜

90年初、わずかに残る製作プロダクションの中で、獅子プロダクションはかろうじて社員助監督を育てるシステムが残されていた。次なる世代を担う、今岡信治、田尻裕司、榎本敏郎らがここから巣立っていく。一方サトウトシキ作品を主にプロデュースしていたアウトキャスト・プロデュースからもサトウ監督の助監督時代からの仲間である上野俊哉、中野貴雄、女池充らが監督デビューを果たす。その後、獅子プロピンク映画制作からほぼ撤退し、アウトキャストも解散。ピンク映画をめぐるプロダクションシステムはついに崩壊を迎えた。この頃、四天王の直系であり、その次世代にあたる7人の監督が台頭。彼らは、「ピンク七福神」と称されたこともあった。先述した今岡監督、田尻監督、榎本監督、上野監督、女池監督に、鎌田義孝(98年『若妻・不倫の香り』デビュー)、坂本礼(99年『セックス・フレンド 濡れざかり』デビュー)の2名を加えた7名である。90年代前半は、四天王が若手の中心となって活躍していたが、90年代後半になると、それまでの若手の登用が少なかった大蔵映画(現、オーピー映画)やXces Filmなどからも次々と新人がデビューし、先述の7名を含めより広い意味での「ニューウェーブ」が生まれたといえる。00年には、七監督達が自ら運営の中心となって「P-1グランプリ」が中野武蔵野館で開催された。これは各監督が自信作を出品し、2本立て上映をしてその場の観客が勝敗を決定。トーナメント形式でチャンピオンを決めるとイベント。第一回目の優勝者はベテラン勢に入るサトウトシキ監督であった。
01年ピンク第一号と呼ばれる『肉体の市場』の小林悟監督が亡くなった。翌年02年には、ピンク映画は40周年を迎えた。近年、映画祭や一般映画館での公開などが相次ぎ、ピンク映画と一般映画との境界が低くなっているのは事実である。そして現在もまだ、ピンク映画はベテラン監督の執着と、若手監督による新風との調和により、生き延び続けている。
さて、今後のピンク映画の歴史に名を連ねるのは一体、誰なのであろうか。

<参考文献>「P・G別冊Vol5」「Pink&Porno」(ネコパブリッシング)

<協力>林田義行氏



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ピンク四天王とピンク映画 

林田義行(PG編集長)

 映画『ピンクリボン』でも取り上げられている、「ピンク大賞」というイベント、そして「PG」という雑誌の活動を80年代末期からスタートさせた僕にとって、個人的に一番思い入れがあり関わりが深かったのは、「四天王」と呼ばれる作家たちである。尺の問題か残念ながらこの映画の中には登場しないが、佐藤寿保、サトウトシキ、瀬々敬久、佐野和宏、この四人がAVの急成長により大きな打撃を受け低迷を余儀なくされる90年代ピンク映画の最も重要な存在であることは間違いない。そして、最近の映画ファンの間ではピンク映画の作家=四天王というくらい馴染みの深いものであるだろう。

 「四天王」とは強靱な存在を思わせる響きの良い呼称であるが、元々は「難解で色気のない作品ばかりを撮り、観客離れの元凶とされる四人の監督」という皮肉を込めて、とある興行関係者がつけたものである。若松孝二、高橋伴明ら社会性、メッセージ性の強い作家のピンク映画に影響を受け、この世界に飛び込んだ彼らが発表し続けたのは、同じようにただエロを売りにするだけのものやエンタテインメント性にあふれたものではなく、己の作家性をピンク映画という枠に封じ込めた、いわばアート系寄りの作品であった。若松プロ作品や高橋伴明作品などがそうであったように、若者が観客の中心だった時代のピンク映画であれば、それもまた熱狂的な支持者を産んだはずである。しかし、「ドラマを解体し女の肉体と性をリアルに映し出す」というAVのスタイルがH映像メディアの本流となり、若者が全くといっていいほど劇場から姿を消したその時代のピンク映画には、もはや四天王らの作品は許容されがたかったのだ。

 彼らへの冷遇が業界内で高まる90年代、四人の監督たちはその状況を打破するため、自ら会合の場を重ね、1993年アテネフランセ文化センターでの特集上映「新・日本作家主義烈伝」を実現させることになる。一年に渡り、各監督をフィーチャーし四度にわけて行われたこの上映で、次の回を待つ観客が4Fのホール前から1Fまで長蛇の列を作るという信じられない光景がそこにあった。その後現在に至る、ミニシアターのレイトショーや名画座の特集上映でピンク映画の新作が上映されるなどのスタイルは、間違いなくここから始まった歴史である。

 そうしてピンク映画という世界の認知は確実に広がったが、現実的にピンク映画業界全体をめぐる状況は何も変わらなかった。四天王人気が一般の映画ファン、評論家まで浸透したものの、それがピンク映画の動員向上に繋がることはなかった。もちろんそれはピンク映画という世界の環境の問題(劇場の入りにくさや情報の無さなど)も大きく関係しているのだろうが、「偏見」は消えてもこの世の中とピンク映画を隔てている大きな「壁」は未だ消えることのないままだ。

 そうした「偏見」の消えたピンク映画は、性的な文化がより解放された現在の社会の中で、表現力としてのパワーが失われつつあるのもまた事実かもしれない。男女の愛欲というものを基盤として社会に対しての苛立ちや敵対を表現して、見えぬ敵そして観客へと発信し続けた、かつての作家主義ピンク映画はもはや希薄である。この映画に「今」を象徴する監督として登場する女池充、田尻裕司、あるいは昨年『たまもの』で注目された今岡信治をはじめとする作家の日常感覚における愛欲のドラマは、映画としての充実度は確かにありながらも、時代と呼応していた頃のピンク映画のアナーキズムはない。

 ピンク映画という「フィルム」が映像ソフトとしてレンタルビデオ店やDVDショップに並び、BSやCSの衛星放送の電波に乗り、インターネットの配信を通じて供給されるこの時代、もはやピンク映画はアンダーグラウンドなものとして扱われてはいないのだろう。そのキャッチーさがピンク映画の作品の質を変容させてしまった要因の一つかもしれないが、それでも魅力的な作品を送り続け、その驚きと歓びを与えてくれるこのピンク映画という世界。明るい未来はないのかもしれないが、最後の最後まで輝き続けている世界であって欲しい。



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