70's[マイアミ時代]

1970年初め、トム・ダウドはマイアミのクライテリア・レコーディング・スタジオのスタジオデザインを監督することになる。彼はフロリダに移り住み、すぐにメンフィスのリズム・セクション、ディキシー・フライヤーズを社のバンドとして呼び寄せた。ここにアトランティック・レコード・サウスが誕生した。

マイアミで彼が最初に手がけたプロジェクトは、マッスルショールズで出会って録音したことのある、フロリダ生まれのギタリストのものだった。グレッグとデュアン・オールマンの兄弟で演奏していたオールマン・ブラザーズ・バンドが南部にやってきた。なぜなら前年に日程が合わず、トム・ダウドは彼らのファースト・アルバム、『オールマン・ブラザーズ・バンド』(エンジニアはダウドのアシスタントのエイドリアン・バーバー)をレコーディングすることができなかったからだ。しかしすぐに、ダウドは彼らのセカンド・アルバム『アイドルワイルド・サウス』をクライテリア・スタジオでレコーディングし、1971年には『フィルモア・イースト・ライブ』をプロデュースした。こうして、喜び、苦しみ、挫折、再生の時代と、壁を埋め尽くすゴールド・レコードに彩られた、25年にわたる彼らの成功の年月のコラボレーションが始まり、やがてオールマン・ブラザーズはロック史上の伝説的なグループのひとつとなった。

彼らが、初のコラボレーション『アイドルワイルド・サウス』に取り組んでいた時のことだった。ロック史上に残る傑作アルバムが生まれるきっかけとなる電話がかかってきた。常ならぬことだったが、彼はレコーディング中に電話に出た。トム・ダウドはこう回想する。

「バンドが演奏を終えた時、私はまだ話し中だった。入ってきたデュアンは、電話が終わるのを待った。私は謝った後、エリック・クラプトンのマネージャーからだったので、出ないわけにはいかなかったと説明すると、デュアンは、エリックのソロアルバムのタイトルや曲名を空で言い、そのうち何曲かを歌ってもみせた。私は、エリックが8月の下旬にバンドのレコーディングでマイアミに来ることを教えてやった。デュアンは、自分たちも同じ頃にマイアミ・ビーチでコンサートがあるので、レコーディングを見に行ってもいいかと聞いた。ふだんの私なら、エリックのシャイさを知っていたから断っただろうが、デュアンのような優しいやつなら、エリックも大丈夫だと思い、“もちろんさ”と私は答えた。“街に来た時には電話してくれ”と」

そして、エリックと彼のバンドメンバー、カール・レイドル、ジム・ゴードン、ボビー・ウィットロックが到着した時のことを、トム・ダウドはこう思い返す。

「機材がスタジオに運び込まれたのを見て、目を疑ったよ。ベースアンプは、15インチのスピーカーつきのアンペッグのピギーバックだったし、ギターアンプは、フェンダーのチャンプだった。さらに、もう一台のギターアンプは、フェンダーのプリストン。その前、エリックとジャック・ブルースのレコーディングをした時には、双方にマーシャルを積み上げた」

「その翌日、デュアンが電話をかけてきた。その晩に、彼らの演奏があったからだ。私はエリックに、オールマン・ブラザーズ・バンドとデュアンがスタジオに見に来たがっていることを伝えた。エリックは目を輝かせ、“あの、『ヘイ・ジュード』のエンディングで演奏してるやつのことかい?”と聞いてきた。デュアンがセンセーショナルなソロを披露しているウィルソン・ピケット版のことだ。“その通りさ”と私は答えた。エリックは彼の演奏を見たいし、会ってみたいとも言ったんだ!私はリムジンを手配して、みんなで会場に向かった。クルーの連中が、私たちを忍び込ませるために待っていてくれた。彼らは到着した私らを手引きし、ふだんならカメラマンが立っているような、ステージと聴衆たちとの間のスペースにもぐり込ませてくれたんだ。デュアンが私たちに気づいたのは、ソロを演奏している時だった。彼は演奏をやめてしまったため、ディッキー・ベッツは、あわてて代わりにソロを弾き始めた。彼らは最後まですばらしい演奏をした。ショーが終わった後、私たちは楽屋で挨拶を交わし、そしてそのままオールマン・ブラザーズ・バンドとデレク&ドミノスはスタジオに戻って、セッションをすることに決めたんだ。なんて、気ままな連中なんだ」

「オールマン・ブラザーズのメンバーがみんなが帰ってしまっても、デュアンはまだ数日残っていた。エリックと同様、お互いの演奏スタイルにすっかり心を動かされてしまったからだ。ふたりは静かに話し合い、お互いの可能性に畏怖心すら抱いていた。互いのエゴなんて、まるでどこかに吹き飛んでしまったみたいだった。デュアンが時々参加する形で、10日間にわたるレコーディングとオーバーダビングの日々が始まった。その99パーセントは、有名なアルバム『いとしのレイラ』にあまさず収められているよ」

70年代の残りの日々を、ベテラン・プロデューサーであるダウドはとても忙しく過ごした。彼は離婚し、また再婚もした。二度目の妻のシェリルとの間に初めての娘が産まれた。今までいっしょに働いてきた人々との友情を保ちながらも、それまでとは違ったアーティストやミュージシャンとコンビを組んで数々のレコードを生み出した。彼には、ミュージシャンやアーティストにユニークなパフォーマンスをさせる能力があったのだ。新世代のアーティストやミュージシャンたちの手助けをし、よりよいレコーディングを行うことも、彼にはたやすいことだった。

こうして、エリック・クラプトンの『461オーシャン・ブールヴァード』や、ロッド・スチュワートの『アトランティック・クロッシング』、『ナイト・オン・ザ・タウン』、『フット・ルース・アンド・ファンシー・フリー(明日へのキックオフ)』、『ブロンズ・ハブ・モア・ファン(スーパースターはブロンドがお好き)』、ウィリー・ネルソンのリミックス『ショットガン・ウィリー・アンド・フェイシズ・アンド・ステージズ』、レーナード・スキナードの大成功アルバム『ギミー・バック・マイ・ビュレッツ』、『ストリート・サヴァイヴァーズ』、『ワン・モア・フォア/フロム・ザ・ロード』などがレコーディングされた。

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